(連載小説:第14話)小さな世界の片隅で。
歩は、覚悟を決めた。これから先は、予測不能な未来になるだろう。
杉山さんと、科長の待つ、4階の会議室へゆっくり向かう。
廊下や階段の窓から差し込む西日が、白色~オレンジ色に変化し始め、柔らかく院内の床や、壁を照らしていた。
歩は、その暖かさや、色を感じる事の出来る感覚が戻っていた事に気づいた。
廊下を歩く、歩の足元には、いつものように、肩を落とした少し情けない歩の影が寄り添っていた。
淡いオレンジ色の中をゆらめくように歩く、その情けない影は、しかし、いい情けなさをしていた。
情けない影は、4階の会議室前のドアに着いた。14時55分。ドアをノックし中へ入る。
”コンコン。”
”はい…。”
中から返事が返ってきた。
”失礼します…。”
歩は、中へ入った。
会議室の中は、カーテン越しの淡いオレンジ色に包まれていた。
西側の大きな窓から、カーテン越しに、白くぼんやりと、近隣の住宅やスーパー、そこを行き交う車や人々がうっすらと見える。その先の開けた空には、黄昏時の柔らかな夕日が、低い位置から、こちらをじっと見ていた。
北側のテーブルに大石科長と、杉山さんが並んで座っていた。
その向かいに椅子が1つ置いてある。
”歩君、じゃあこっちに座って。”
大石科長が、軽く手をやり、歩に促した。
”はい、失礼します…。”
”じゃあ、ちょうど時間だから、始めようか。”
”はい…。お願いします…。”
歩は、ゆっくりと頭を下げた。
大石科長は、ゆっくりと話し始めた。
”歩君、杉山君から聞いてると思うけど、前々から杉山君が、歩君に対して思う事があったみたいでね。その都度、ちょくちょく報告は受けていたんだけど、”
”僕では対処できませんという話を受けてね。今回この場を設ける事になったんだけど、ここまではいい?”
”はい…。”
歩は、軽くうつむきながら、ぐっと堪えていた。
歩の両足に乗せられた手に、自然と力が入っていた。
大石科長が続ける。
”それで、杉山君からの報告なんだけど、制限時間のある業務を毎回こなせない。提出物も毎回、期限を守れない。上司の杉山君とのコミュニケーションも円滑にとれず、その都度、指導をしているんだが、改善の余地が全く見られない。勤務態度も不真面目で、周りのスタッフや、利用者さんに大きな負担をかけていると。”
”主にこういう趣旨の報告を受けているんだけど、これについてはどう?”
”はい…。その通りだと思います…。”
歩は、堪えながら答える。
”そう…。”
大石科長は、軽く俯いて、頭に手をやった。
”じゃあ、今度は、杉山君の方に聞くよ。”
”はい。”
”これを、聞いて、なにか付け足す事はある?”
”付け足すというか…、歩君は、仕事、ナメてるし、やる気ないんですよ。”
杉山さんが、足を細かく、揺らしながら話し始めた。
”毎回お伝えしていますが、歩君は、そもそも、基本がなってないんです。”
”制限時間のある業務というのは、送迎の業務と、リハビリ業務の事だと思いますが、送迎については、たしかに厳しいルートの日もあります。ですが、周りに協力を仰ぐなり、僕に報告し、ルートの相談をするなり、いくらでも方法はあるはずです。それを一切やろうとしません。自分で勝手に判断して、その結果、毎回遅れてくるんですよ。”
”提出物に関しても、同じです。これも、急遽依頼する事もありますが、期限については、相談してくれれば、いいんです。そういうのが、一切ないんです。最近頼んだ資料なんて、月末に提出すると、自分で言っておきながら、こちらが状況を確認すると、まだ手も付けていないみたいなんですよ。”
いつもの様に杉山さんがヒートアップしていくのが分かる。
都合の良い部分だけを切り取って、大声で捲し立てている。
”ったく。どうしたら、こういう事が出来るんですかね。皆に迷惑ばっかりかけて。”
”今まで上げたのは、ほんの一部で、他にも上げたらキリがないんですよ。”
”…。”
科長は、黙って聞いている。
”見ててイライラしてくるんですよね。真面目なようで、時々ヘラヘラしてるし。歩君、いい歳して、まだ所帯も持ってないみたいだし。だから、責任感とかも全然ないんですよ。”
”まぁ、こんなのと所帯を持ちたい人なんて、いないか…。”
”…待ってください。こうゆうのは、歩君個人の問題というより、育った環境とか、親の教育とか、そういうのが関係あるんですかね?”
”どんな親の顔なのか、どういう育て方したら、こんなのになるのか、一回見てみたい…”
”杉山君、ちょっと。”
大石科長が止めた。
一瞬間が空いて、大石科長が再度、歩に話かけた。
”杉山君が、こう言ってるんだけど。歩君、これに関して、何か意見はある?”
1週間前の事が思い出された。歩は、この場所で、同じ事を言われていた。その時は、ただひたすらに耐えていた。
何を言われても、”すみません。”、”間違いないです。”、”申し訳ありません。”と。
どんなに傷ついていても、自分の思いに反していても、それを言う事で、穏便に事が収まればと思っていた。
いつもの”歩”を演じていた。
情けなかった。
いつもの情けなさとは違う、本当に情けない自分の姿だった。
この面談そのものがつらいのではない。
勿論、つらい事は、つらいのだが。
それよりも、数十年勤めて、苦労して、時間を費やして、得られた結果が、目の前の、あまりに薄っぺらい”これ”だと思う事、思わされる事が、堪らなく情けなかった。悔しかった。
面談中、いつもの歩を演じ、その場をやり過ごしていたとしても、
心の底で、”これ”は、到底受け入れられるものではなかった。
あの事故のきっかけになっていたのは、この面談だった。
この面談以降、杉山さんや、会社の風当たりは、より強いものになっていった。まわりの見る目も変わった様な気がした。
何より、自分が変わっていった。
自分ですら助けてあげられなかった自分を、心底嫌いになっていた。
もう、自分で何を信じていいのか、何で自分は生きているのか、何の為に生き続けているのか、分からなくなっていた。完全に自分を見失っていた。
視野が極端に狭くなり、自分で自分の存在を消してしまおうと思った。
そして、あの事故に…。
でも…。
色んな人の顔が浮かんだ。
ふと、山野と会話した、先の場面が頭をよぎった。
”依存しない…。”
”守りたいもの…。”
そうだ…。2回目の歩は、思った。
歩がこの時、耐えながら守っていたもの、それは、本当に守りたいものなんかじゃなく、ただ明日の自分を生かす為の、自身の保身であった気がした。
生きる気力がないのに、ただ変わらない明日がくる事だけを願う。
当時は、考えられなかった。考える事が出来ない位、疲れていた。
生きたくもない明日を、自分で作りだしていた。
オレンジ色の会議室で、下を向き、耐えながら守っていたそれは、自分の命と引き換えにする程、大事なものとは思えなかった。
情けない歩に、本当は、生きる意味なんてないのかもしれない。
だけど、それは、他人が決める事じゃない。
自分で探し、見つけて、選んでいくものなのかも。
だとしたら…。
そして、いまここで俯き、耐えている、自分を助けてあげるのは、自分しかいない。
歩は、大きく息をつき、一回視線を床に落として、覚悟を決めた。
科長達から見えない様に、ギュッと目を瞑った。両脚の上に乗せた両手に自然と力が入り、ズボンのポケットの辺りをギュッと握っていた。
握った先に何か硬いものが触れた。
指先に触れたそれは、錆びて古びた自転車の鍵だった。
”もう、戻れない。”
心の中で、歩は思った。
歩は、覚悟を決めた。
もう一度、その鍵をポケットの上から握って、科長達の方へ顔を上げた。
”科長…、杉山さん。”
”何?”
”おぅ。”
”突然で、申し訳なく…本当は、もう少し早めにお伝えすべき事だったのかもしれませんが、”
”…。”
”僕は、会社(病院)を辞めさせて頂こうと思います。”
”え?”
科長と杉山さんが、顔を上げた。
歩は、ゆっくりと話しはじめた。
”今までのお話、概ね事実な事は認めます。”
”僕が、至らない所があるのも確かです。”
”でも、その事実の背後で、どんな状況、環境で働いていたか、それは、僕と杉山さんしか知りません。”
”…。”
”僕と、杉山さんとの個人の間の話しですから、ここで詳しく話すつもりもありません。”
”科長…、杉山さん…。”
歩は、科長と杉山さんを、ゆったりと見ながら、いつものの様に俯き加減で話始めた。
”この病院は、僕が若者だった頃から、中年になった今まで、ずっと勤めてきました。飽き性な僕にとって、珍しく続けてこれている事の一つです。”
”入職したとき、他の人と比べて、見劣りする、こんな僕を拾ってくれて、すごく嬉しかった事、今でも覚えています。”
”初めて、ロッカールームで、病院の制服に着替え、現場へ出た時の晴れやかな気持ちも覚えています。”
”科長…、入職したての頃に、毎日、緊張しっぱなしだった僕に、”歩君、先は長いんだから、焦らずじっくりやればいい。”と、平行棒の横で、優しく声をかけてくれたこと、僕、まだ覚えているんですよ。”
”杉山さんも…、あの頃は、デイの職員も少なかったら、2人で協力して、色んな事をしたし、勉強会とかに一緒に出たり、ここでやったりもしましたね…。ありがとうございました…。”
”ここで働いていく中で、職員さん、患者さん含め沢山の人に出会い、関わりを持たせてもらいました。”
”僕はもともと、引っ込み思案な人間です。この仕事でなければ、こんなに多くの人と関わる事は、なかったと思います。月並みですが、人と関わる大変さ、うれしさ。難しさを学ばせていただきました。ささいなすれ違いや、いさかいがきっかけで苦しい思いをしたり、また反対に救われたりもしました。”
”ご高齢の患者さん、ご家族さんとの関わりを通して、(僕個人が思う)あるべき人の在り方や、儚さをしりました。”
”一言で言えない位、沢山の事を学ばせていただきました。本当にありがたく思っています。”
”時がたって、ごらんのとおり、僕は、情けない中年になりました。”
”心も、体ももう若くはありません。”
”患者さん達がよく言うように、やっぱ歳には勝てないみたいです。ここ数年で、僕の体は、少しおかしくなりました。体調も崩しやすくなりました。若い頃の様に、心身ともに無理はできないみたいです。”
”時間というのは本当に残酷で…、その間に、所帯を持ったりという、僕の送りたかった普通の人生が容赦なく、僕の横を、通り過ぎていきました。”
”でも…、それも含めてもなお、重ねた時間の中に、学ぶ事がありました。身をもって、知るというか…、何と言うか…。”
”失っていくものの反対側で、得られるもの、気づかされるものもありました。それを重ねて、自分を知る事や、自分なりの考えを持つ事が出来たと思っております。”
”人から見れば、情けない中年の一人だと思います。でも、この中で、自分は生きていたのだと、自分の人生の一部がここに、確かにあったんだと、今話しながら、改めて、そう思っております。”
”何が言いたいのか分からなくなってきてしまいましたが…、ここで働く事ができて良かったと思っております。”
”そして、そう思う傍らで、僕の今の状態で、今後も、ここで働き続ける事は、難しいのかなと思いました。”
”今の状態のまま、続けていても、僕自身、杉山さん、何より、周りの職員さんに、迷惑をかけてしまいます。”
”そんな迷惑をかけてしまう前に、ここを辞めさせて頂こうと思いました。”
”…。”
”歩君…、退職を…、考えているのか…?”
科長が、ゆっくりと歩に尋ねた。
”はい。前置きが長くなりましたが…。”
”…。”
”杉山君…、これについては、聞いてる?”
”いいえ…。”
”…。”
杉山さんのトーンが一気に下がったのが分かった。
足の小刻みな揺れも止まっていた。
少し間があいた。
”歩君…。”
科長が話始めた。
”歩君と、こうやって話す機会は、最近はあまり無かったな。歩君の心境や考えを、久しぶりに聞くことが出来て良かったよ。お互い、歳をとったな…。杉山君も、なぁ、おい…。”
”それで、退職の事なんだが、ちょっと一旦持ち帰らせてもらってもいいかい?”
”もちろんです…。僕が急に言い出した事ですから…。”
”うん。杉山君とも、もう一度話をしてみるよ。”
”杉山君、いい?”
”はい…。”
”…。”
西側の窓から、黄昏時の夕日がこちらを優しく照らしていた。
”歩君、それじゃあ、面談は、このくらいにしようか。”
”はい…。ありがとうございました…。”
”うん。いいよ。”
科長が、入り口のドアの方に手をやり、退席の合図をした。
立ち上がって、科長と杉山さんに一礼してから、入り口のドアに向かう。
ドアノブに手をかけ、退室する時にもう一度、科長と杉山さんの方を振り返り、一礼してドアを閉めた。
”お疲れ様。また連絡するから。”
オレンジ色の室内から科長の声が聞こえた。
面談は終了した。
”これで…、よかったのか?”
歩は、自分に聞いてみた。
正解かどうかは分からない。でも、悪い気はしなかった。
ただ、思いのほか、饒舌になっていた自分に少し驚いた。
会社を嫌いになり切れていない自分にも。
そして、ここから先の人生は、もう予測はできない。
何が正解かは分からないけれど、今を大事に生きたい。
記憶があるうちに自分が大事だと思うものに、もっと目を向けてみようと思った。
歩は、仕事を早めに済ませ、駐輪場へ向かった。
止めてある自転車に、錆びた鍵を差し込み、回すと、1回でガチャっと鍵が上がった。
”あれ?”
不思議だった。意味もなくあたりを見渡したりした。
特に何があるわけでもなさそうだった。
歩は、自宅へ向けて、自転車をこぎだした。明日は休日だ。大切な事に時間を使いたい。まだ明るさが残る夕暮れの中を、そんな事を考えながら、帰路についていった。
(次号へ続く)
※本日もお疲れさまでした。
社会の片隅から、徒歩より。
第13話。
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