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映画“この世界の片隅に。”を観て。

こんにちは、徒歩です。日に日に暖かくなってきましたが、皆様、どうお過ごしでしょうか?
桜が咲きましたね。花粉症の症状と共に、この時期少し切ない気分になるのは、僕だけでしょうか。

それは、出会いや別れの節目である不安定なこの時期の気持ちと、桜が一斉に咲き、惜しげもなく散っていく淡く儚い桜の記憶が、自分の中に同時に存在しているからかもしれません。

ちょっとそれらしい事をいってみました。

僕は、昨年から、不定期の更新で、“小さな世界の片隅で。”という連載小説を書いています。
地方の川辺に住む、社会の主人公となり得ない、名もなき人々が織りなす小さな物語(になる予定)です。
素人の文章ですが、ご興味のある方は、読んで頂たら嬉しいです。

これを書くにあたって、タイトルをどうしようかと考えていた時に、世界の中心の話ではない=世界の片隅、小さな日常を生きていく話=小さな世界、等と足りない頭を逡巡させて↑のタイトルにした所、納まりが良かったので、このタイトルにしたのですが、
つけた後に“何かどこかで聞いた事があるなぁ。”と思っておりました。
しかし、その正体は掴めず。

しかし、先日、帰宅後、いつもの様にダラダラとYouTubeを見ていた所、トップ画面の隅の方に、“岡田斗司夫がオススメする、死ぬまでに絶対に見るべき映画ベスト30”、というタイトルの動画が表示されておました。

映画が割と好きな僕は、その動画のタイトルに釣られ、まんまと見てしまう事に。そして、その動画の中にありました。

名作の定番と言われる、”ショーシャンクの空に“や、“天使にラブソングを。”と一緒に、“この世界の片隅に。”という日本のアニメーション映画が。

普段、僕は、あまりアニメを見ないので、分からなかったんですが、一時期話題になったのですね。

僕は、このタイトルをどこかで聞きかじり、無意識の内に自分で造語している様な錯覚に陥ってしまっていたのです。簡単にいうと、一部パクってしまった訳です。何だか申し訳なかったです。

しかし、“タイトル(言葉)が内容を表すのか“、”内容を凝縮したものがタイトルになるのか”、時代設定は異なりますが、“何でもない日常を生きる、何でもない(どちらかというと冴えない)人々を描きたい”という点では、僕も同じものを書きたいと思っていて、そこの部分が似てくるのは、不思議だなぁと思いました。

動画の中で、この作品を岡田斗司夫さんは、間違いなく、個人的に本年度ナンバー1の作品(公開時2019年?)だと絶賛されておりまして、その内容を熱弁されておりました。

タイトルを軽くパクってしまった事に気づいてしまった、情けなき僕は、Amazonプライムで、そのネタ元である、この作品を見てみる事にしました。

以下にあらすじと、感想を書いていきます。

あらすじ

1944年(昭和19年)、広島市から呉市に嫁いできた18歳のすずさん。旦那さんの周作さんと、その家族(義父母、義姉、姪)に囲まれながら、嫁としての仕事を一つづつ覚えていく。やがて戦況が悪化し、配給物資が次第に減っていく中、すずさんは、さまざまな工夫を凝らして、嫁ぎ先の北条家の暮らしを懸命に守ろうとする。そして…。

感想


タイトルや、おすすめに惹かれ、映画を観だしたのですが、昨年亡くなった僕の祖母が、大正15年生まれで、この映画の主人公のすずさんと同様、終戦間際の昭和18~20年頃に、20歳前後で嫁いでいて、祖母の住んでいた地域でも、当時大きな空襲があったようです。そういった意味でも、祖母とダブる所があり、穏やかで、優しい祖母でしたが、こんな時代を生きぬいてきたのだなぁと、少し灌漑深くなりました。

※生前、祖母が僕にくれた、端切れで作った小さな「わらじ」。”お守りにでもするさ。と。
器用で優しいおばあちゃんでした。

重要なシーンを避けながら、感想を書いていきたいと思います。
最初に思ったのが、色彩が淡く豊かで、絵がとてもきれいだと思いました。主人公のすずさんが、趣味で水彩画の様な絵を描いており、全編を通して、その水彩画を思わせる様なタッチで、(もう実在しない)当時の広島市や呉市の街並みや、自然、生活の様子が表現されています。それが、所謂リアルな映像ではないにも関わらず、あたかも、そこにあると感じてしまう位、リアルに感じました。

僕が印象に残ったのは、すずさんが屋外に出て、ちょっと休憩する時に座る地面に、生えている雑草や、野の花が光を浴びて、風に揺れている所だったり、時間帯や雰囲気に応じて変わる、明かりの感じ。部屋の中に差し込む日差しや影との対比であったり、家で過ごす、夜の時間の中にも、暗さの中のグラデーションがあったり、この辺りの何気ない所が、本当に美しいなぁと思いました。

また、作業中にふと見上げる青空に、戦闘機が横切って行ったり、視界の先にある、きれいな海に軍艦が何隻も浮かんでいる描写があり、日常の中に戦争が溶け込んでいる感じ(当時の空気感のようなもの?)が表現されていました。

その日常の中で、急に警報が発令され、機銃掃射や、爆撃のシーンに切り替わります。ここは、とても恐ろしく感じます。
特に、警報が出されて、すずさんが義姉の娘を連れて、防空壕に逃げ込むシーンがあるのですが、全員が避難し終わり、防空壕の扉を閉める時、義姉の娘が一言、”熱い…。”とこぼします。何が熱いのかの説明はありません。
これが、すごくリアルで。その後の激しい爆撃の恐ろしさを際立たせているように感じました。

※補足ですが、この日常の中でいくつかの出来事が起こります。その出来事が起こる際の中心部分は、あえて(かどうかわかりませんが)描かれません。前後の断片的な映像がぶつ切りに提示されたり、映像が急に抽象的な表現に変化したりします。その際、余計な説明もありません。起こった出来事がはっきりしてくるのは、少し時間が経ってからです。この辺りの感覚も実際の感覚に近いんじゃないかと個人的に感じました。

映画の中では、当時の風習も丁寧に描かれています。食べ物は、所謂、配給で賄われており、配給だけでは、とても一家を支えられる量は無いため、野草を摘んできたり、野菜を育てたり、時には、闇市へ買い出しに行ったりと。(闇市は言葉のイメージ程、アングラな場所ではなく、人々が集うにぎやかな場所として描かれていました。)一家で食べていく為に、工夫をしている様子や、

その他、貰った着物をモンペに直したり、繕ってまた直したり、風呂やかまどで、火を起こしたり、生活用水を桶に汲んで、家まで運んできたりするシーン等が出てきます。
当時は、衣食住の生活自体が全て身体を使う作業であり、生きる事と直結しているように感じました。
また、どんなときも、家族で食卓を囲んでいる場面も印象的でした。生きていく為に何をすべきかという事が、ギュッと凝縮されているように感じました。

最後に、僕が、映画全体を通して感じたことは、
”困難を乗り越えるというよりも、一緒に寄り添う。”
という印象を感じました。

映画の冒頭で、すずさんが、18歳を迎えた時に、家族から、見合いの話があり、”嫌だったら帰ってくればいいから、会うだけ会ってみな。”と、送り出されます。

嫌だったら帰るといわれても、初対面で、良いも悪いも分かりません。悪くは無さそうだから、そのまま成り行きで嫁いでしまう所や、嫁ぎ先の家に入るという感覚(覚悟の様なもの)は、今の感覚とは、大分異なる感覚ではないでしょうか。

見ず知らずの、嫁ぎ先で、人間関係に悩んだり、逆に救われたり。それとは別に戦時下での”日常”がすずさんの元に次々と降りかかってきます。どうにかなる事もあれば、どうにもならない事も。取り乱してしまう事や、ただ立ち尽くしてしまう事もあります。

しかし、そんな時、誰かが傍らで、そっと寄り添ってくれているんです。アドバイスをするわけでもなく、自分が克服したり、乗り越えていくわけでもない。そっと寄り添うんです。それによって、何かが解決されたりするわけでもないけど、つらい時間がすぎるまで、ただ傍にいてくれる。個人的に、ここにグッときてしまいました。そして、これは、映画の最後のシーンにもつながっています。

物が今よりもずっと少なく、生死さえ危ぶまれた時代。人との距離が(良くも悪くも)ずっと近かったのだと思います。もうこの時代には、戻れないけれど、(僕を含めて)今の時代を生きていく中で、これだけ物が豊かになっても、何か違和感(足りない感じ?)を感じるもの。それは、戦後の数十年の間の経済的な復興と引き換えに、僕たちが、置いてきてしまったものなのかもしれません。そんな事をふと考えてしまった休日でした。

何気なく観た映画でしたが、とても良い映画でした。

僕は、小説や詩、俳句等が好きなのですが、(普段はあまりみませんが)アニメにも、こんな表現があるのかと驚かされました。
今後も、ジャンルにとらわれず、色々な物に触れ、感性を磨いていけたらと思います。

皆さんもお暇なときにぜひご覧になっていただけたらと思います。


※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から、徒歩より。

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