サイドストーリー【文子の章】第1話(小さな世界の片隅で。)
〇
”あの子、どうしてるかな…。”
午前10時、文子は、自宅のダイニングで、テレビから流れるニュースを、ぼんやり聞きながら、10年前に家を出ていった息子の事を思い出していた。
そのニュースは、ある宗教団体施設に、警察の家宅捜索が入った事、信者の一部が施設から脱走している事を伝えていた。
文子は、途中でテレビを消した。
テレビを消した瞬間、ダイニングは、一瞬無音になったが、耳が慣れると、遠くの幼稚園から聞こえるピアノの音や、子供たちのはしゃぐ声、隣家の掃除機をかける音、洗濯物をカチャカチャと干す音等の生活音が、テレビの音にかわって聞こえ始め、その無音は徐々に砕かれていった。
音を通して、住民の生活の一部が文子の生活にも流れ混んでくる様な、この感覚は、一人暮らしの文子の心を、なぜか落ち着かせた。文子は柔らかな、生活音が折り重なる、この時間帯が好きだった。
文子は、テーブルの上の飲み残して、冷えてしまったインスタントのブラックコーヒーを、ゆっくりと一口飲んだ。
そして、昨日河原の散歩コースで話をした、あの中年男性の事を思い出していた。
いつも、道の途中で、すれ違うあの中年男性。年齢は離れているようだが、どこかあの子に雰囲気が似ていた…。
あの男性に一度だけ、声をかけてもらった事がある。
文子がハンカチを落とした時の事だ。
土手の散歩コースで、いつもの様にその男性とすれ違い、数10メートル程歩いたあと、”あ…、あの…”と、後ろから、力なく呼び止められた。
文子が振り返ると、男性が追いつき、”落としましたよ…。”と、このハンカチを拾い、届けてくれたのだった。
25年程前に貰った、(今では)薄汚れたハンカチだ。
文子は、ゆっくりとポケットから、ハンカチを取り出してみる。
年並みに皺が増えた手。近頃、老眼が入りぼやけた視界の先に、その薄汚れたハンカチは確かに存在していた。
数十年たっても、後生大事に持ち続けている事を、ほんとにバカだと自分でも思う。
未練を断ち切るために、棄てようかと何度も思った。
これがあるから、期待をするから、悩みを生むから苦しいんだと。
けれど、それをゴミ箱に棄てようとするたび、
あの子の顔が浮かんで手が止まった。
棄てられなかった。
あの時の笑顔、
こっちに走り寄る小さな姿、
プレゼントと一緒に目の前に差し出された、
もみじの様な小さな手…。
それが頭をよぎると、悩みを抱えたままでいい、苦しいままでいい。その思いも全部含めて、私は、これを持ち続けようと思いなおった。
そして、このハンカチを持ち続けている事が、あの子がいつか帰ってくる可能性を残してくれている様な気がした。
冷めたコーヒーを、もう一口ゆっくり飲む。
しかし、文子の、心の奥深くに沈めたその覚悟と淡い期待は、当然ながら、かなう事もなく、誰に届くわけでもなく、また、何かが変わるわけでもなかった。無常にも時間は過ぎていき、幾つもの季節が文子の上を過ぎていった。
その変化なく繰り返される時間は、あきらめという漂白剤を伴いながら、文子のその覚悟と混ざり合い、文子に気付かれぬよう、長い時間をかけて、このハンカチと同時に文子のその思いまで、徐々に色褪せさせたようだった。
そんな時、このハンカチを落としたのだ。
そのまま、失くしてしまっても、おかしくない状況だった。
しかし、そのハンカチは、拾われて文子の元にまた帰ってきた。
あの子に似た、あの中年男性に拾われて。
その時、かすかに希望を感じたような気がした。
何の根拠もない…。ただの偶然…。
ハンカチを落として、通りがかった人が拾ってくれただけ…。
でも。でも…、その希望にすがりたい自分も居た。バカみたいだけれど…。
そして昨日、あの宗教団体のニュースをテレビで見た。
咄嗟に息子の事が頭をよぎった。
文子は心を落ち着けようと、咄嗟に家を飛び出した。
そのまま歩いて、歩いて、歩き続けて…、
気が付くと、いつもの河原の散歩コースへ出ていた。
その時にまた、道の先で、あの中年男性を見かけた。
男性を見た瞬間、何故かホッとした気持ちになり、衝動的に声をかけてしまった。そして、
”訳を聞かず、大丈夫と言って下さい。”
と訳の分からないお願いをしてしまった。
文子は、そのとき、他の誰でもない、あの中年男性にそう言ってもらいたかった。なぜそんな事をしたのか、自分でもよく分からない。
あの中年男性は、戸惑いながら応じてくれたが、さぞびっくりしただろう。
マグカップを少し揺らすと、コーヒーはまだ少し残っていた。一口分だけ、残ったコーヒーを飲む。
文子の息子は、家を出ていった後、数年間所在が分からなかったが、風の噂で、その宗教団体に入信していると聞いた。
その教団は、今ではかなり大きな組織になっているそうだ。
噂を聞いた後、文子は、その教団の本部が、地元の田んぼの中にある大きな一軒の民家だという事を知り、そこへ、何度か訪れた事がある。
しかし、その度、来客対応の信者の方から、
”確認しましたが、そういう名前の方は、こちらには、在籍していないようです。”
”また、確認が取れ次第連絡しますので、今日の所は、お引き取り頂いてもよろしいでしょうか?”
と言われ丁重に帰された。
しかし、その信者の方の返答とは裏腹に、そこには、たしかに息子がいる気配を感じた。
そこを行きかう人々やその場に漂う空気や雰囲気が、息子のそれに似ている事を文子は感じとっていた。
どちらにしても、教団側がそういった対応をしている以上、
文子は、それ以上何も出来ず、ただ待つ事しかできなかった。
マグカップに残った最後の一口分のコーヒーを、文子はゆっくり飲み干し、マグカップを洗い場へもっていった。
ダイニングに戻った時、テーブルの隅に置いてある、小さなラジオのスイッチを入れ、ボリュームを上げた。周波数は、いつも聞いている番組の周波数に合わせてある。
ボリュームを上げると、いつものラジオDJの元気な声が立ち上がってきた。
文子が若い頃から聞いている、地方のラジオ番組だ。
”この人、本当にいつまでも元気ね…。”
文子は、少しホッとする。
そういえば、この間、このラジオ番組で、ラジオDJが突然取り乱し、(おそらく)台本にない事を延々としゃべっていた事があった。
ラジオDJは、その時のお詫びをしていた。
文子は、ラジオを聴きながら、頭の片隅で、その時の放送を思い出していた。
その放送の中で、ラジオDJは、放送業界の見えないしがらみや、時代の変化と折り合いをつけていかなければならない自身の苦悩を語り、そんな中でも、長年番組を通じて、リスナーの皆さま方との交流を続けてこれた事が、自分に役割を与えてくれ、今、生きる支えになっているのだと語っていた。
そして、
”僕からは、皆さんの姿は、見えないけれど、メッセージや放送を通じてリスナーの皆さんの存在を近くに感じて、一緒に暮らしているつもりで今日も喋っています。”と続け、
”皆さんから見れば、いつも元気のいいラジオDJに聞こえるかもしれませんが、自分も皆さんと同じように悩みを抱えている一人の人間である事。このラジオを聞いてくれている皆さんがいる事で、自分もいつもの元気のいいラジオDJでいられるんです。”と語り、
予定で組まれていたコーナーの枠を潰して、台本にはない、自分の思いを自分の言葉で伝えていた。
”…。”
文子は、背後で流れ続けているラジオDJの声を聴きながら、
そのラジオを聞き始めた若い頃から今までの時間に思いを馳せてみた。
子供の頃、親と一緒に車で旅行したとき。
若い頃、友達の車に乗って、一緒に遠出をしたとき。
会社に入り、初めて自分で車を買い、当時の夫を乗せてドキドキしながら、地元をドライブしたとき。
子供が生まれて、母になり、車で、病院や実家に何回も通ったとき。
夫と別れて、子供と2人になった車内で、家族が2人になったさみしさを、お互い口には出さずに車で家路についたとき。
子供が家をでていき、いつ戻るとも分からない子供の帰りを待ちながら、一人、会社へ向かう時。
そこには、いつもこのラジオDJの声がいた様な気がした。
文子の胸の中がポッと少しだけ暖かくなったように感じた。
”…。”
文子は、おもむろに、ポケットからスマホを取り出した。
スマホの検索サイトから、その番組のタイトルを入力し、サイトへアクセスしてみる。
番組のタイトルと一緒に、DJ児玉がこちらに向かって軽く微笑んでいる写真がスマホの上部に表示された。DJ児玉の目じりには、年齢並みの、いい皺が刻み込まれていた。
”DJ児玉のエブリデイモーニング”
”児玉さんも、歳をとったわねぇ…。”
文子は少し笑って、ひとりごちた。
スマホの画面を、ゆっくり下へスクロールしていくと、
”投稿はこちらから“という投稿フォームがサイト内に設けられていた。
文子はその投稿フォームのボタンをタップした後、
フォーム内にメッセージを書き込んだ。
”投稿する”のボタンの前で、指が多少すくんだが、
思い切ってそのボタンをタップした。
何でメッセージを送ったのか自分でも分からない。
読んでもらえないかもしれない、
でも、心の奥で誰かに背中を押してもらいたかった。
あの道の途中で、中年男性に声をかけた時と同じ気持ちだった。
バカな事をしているのは、自分でも分かってる。
こんな事をしても、自分の生活が変わるわけではないことも。
この先もずっと同じ生活が続くだけかもしれない、
でも…、それでも…。
しかし、文子の送ったメッセージは、そのDJに読まれた。
そして、DJ児玉は、最後にこう伝えていた。
”息子さんを信じてやってください。”
“あなたの息子さんです。大丈夫です。”
と。
文子の手元には、薄汚れたハンカチが握られている。
ハンカチの上にポツリポツリと涙が落ちていた。
△
”なんで、こんな事になったんだ…、一体いつから…。”
春樹は、ナンバーを偽造した黒いバンを走らせながら、思い返していた。
春樹には、一時期、命に代えてでも守りたいものがあった。
本気でそう思っていた。
”教祖…、いや、おやじさん…。”
”頼むから、生きていてくれよ…。”
”必ず…、必ず…、今度は、俺が助けるから。”
バンの後部座席には、同じく教団幹部の佐々木、岡部、石川が乗っている。
4人が乗った黒いバンは、幹線道路を走り、住宅街へ入る細い路地に入っていった。
(次号へ続く)
※本日もお疲れさまでした。
社会の片隅から、徒歩より。
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
※サイドストーリーの本編はこちらから。