(連載小説:第3話)小さな世界の片隅で。
”それじゃ…、その決断っていうのは?”
初老の男は、ゆっくり答えた。
”歩君、もし君に後悔があるのなら、戻りたいという気持ちがあるのなら、やり直す方法が一つだけある。”
”時間を戻すんだ。”
”事故の前であれば、1度だけ。わしの力で、君の時間を戻す事ができるぞ。タイムスリップみたいなもんだ。”
“ただし、条件がある。”
男は足元で、うづくまり、肩を震わせている歩に、視線を合わせる様、自らもしゃがんだ。
そして、歩に顔を上げる様、促した。
”ほら、顔を上げて。”
歩は、男の足元から、ゆっくりと顔を上げた。
男と目が合う。
にじんだ眼の先で、男の顔は、変わらず、穏やかであった。
男の背後の夕景が、少しずつ夕闇を連れてきていた。
”いいか、しっかり聞くんじゃぞ。“
”…はい。”
“その条件なんだがな。気をつけにゃならん事が三つほどある。”
”…。”
歩は、ゆっくりと頷いた。
“一つ目は、時間を戻す際、一度その時間に戻ったら、そこから先は、同じ時間をかけて、現在の地点に戻ってくる事しかできない。“
“もし10年前に戻ったら、10年かけて、現在の地点(ここ)に戻って来るしかない。”
”いいか?”
”…。”
“二つ目は、その時間に戻っても、そのときの感覚には戻れない。今現在の記憶(ここでの記憶も含めて)、感覚で、その時間を過ごす事になる。”
”よいな。”
”…。”
“そして、三つ目。もし事故を回避出来た場合、事故から先の時間が生まれた瞬間に、ここで起きた記憶は、抹消される。さらに、戻った地点から現在までの、重なっている古い方の記憶は、新しい方の記憶に置き換え(上書き)られ、古い方の記憶は、抹消される。”
“どうだ、分かるか?”
“…?”
“すまん…、ちょっと分かりにくいか…?”
”具体的にいくぞ。”
“つまり、今から、10年前に戻って、事故を回避できた場合、回避できたその瞬間から、今の君が持っている10年前〜現在までの記憶は、消えてなくなり、戻った時から過ごした10年間の記憶に置き換えられる。違和感の無い形でな。”
“先(事故後の未来の)の時間に、2つの記憶を持っていく事は、できないんじゃ。”
“これでどうだ?”
男は、歩に再度尋ねた。
”何となくだけど…、分かった様な気がします…。“
”あの…”
”なんじゃ?”
”それじゃ…、戻った地点より、前の記憶は、どうなるんですか‥?“
”前の記憶は、そのままじゃよ。とくに変更されたりはせん。“
”あくまで、戻った地点から後の記憶が対象だ。“
”要するに、時間を遡れば、遡るほど、君は、大きく未来を変えられる可能性がある一方で、その分、(今の状態で)生き直す時間が増え、かつ、今の君が持っている記憶(思い出)を失う事になる。“
”よいな。”
歩は、しばらく考え、間を置いた。
”それじゃ、戻った地点で、今の記憶(覚えている範囲で)を使って…、例えば、ズルして、お金を稼いだり、災難も避けて通ったりも出来るんですか…?“
”それとも、それは、またほかのルールがあったりとか…?“
男は静かに答える。
“戻った期間で何をするかは自由じゃ。何をしてもいい。”
”その責任が取れればな…。“
やや、間があった。
”歩君…、まだ、条件を消化できてないようじゃな…。”
男は、しゃがんだ状態からゆっくりと立ち上がった。
”本来は、条件に関する以外の事は、言えんようになっているが…。”
男は、西側の川の上流にゆっくりと目を向ける。夕日が沈みかけていた。
そして、歩に背を向け、橋の欄干の方へ歩みよりながら、静かに話始めた。
”ここから先は、わしの一人言だと思って聞いてくれ。”
”もしだぞ…、仮に君が、過去に戻り、今の記憶を使って、株やギャンブル、ほかに何かあるかな?まぁいい。そのたぐいのもので、金を稼ぎまくったとする…。”
”これは、今の記憶を使った結果のものだ。要は必然的に稼いでいるわけだ…。稼いでいるうち、記憶が二重にあるうちはいい。しかし、事故後の時間に切り替わった瞬間に、自分が何で稼いでいたのか分からなくなるんだぞ…。”
”しかも、金が手元に大量にある状態でだ。記憶は、上書きされているから、株やギャンブルで稼いでいた記憶は残る。しかし、それが、偶然なのか、必然なのか区別がつかない。そして、そこから先は、その必然は決して起こらない。ありえんからな。”
”そこから先は、なんとなく想像できないか?”
”…。”
男は、欄干の方から歩の方へ振り返り、続ける。
”歩君…、君は、どうしてここに来たんだ?”
”さっき、泣き崩れて地面をたたいていた時、君が願った事は何だ?”
”そんな事じゃないだろう?”
”何の為に、戻るのか、それを見誤ってはいかんぞ…。”
歩は、静かに聞いていた。
男は、反対側の東の海上に目をやる。
淡い紺色を帯びた夕闇の中に、うっすらと月が浮かんできていた。
”ちょっと、喋りすぎたかな…。”
”歩君、あまり時間がない。立つんだ。”
歩はゆっくりと立ち上がった。
男は続ける。
”歩君、決断をせにゃならん。”
”時間を戻すのか、戻さないのか。”
”戻る場合は、いつに戻るのかもな。”
”戻りたくなければ、わしは、このまま時を進める。君は、多分、海に落ちて、そのまま死んでしまうだろう。”
“どっちを選ぼうが、君の自由だ。”
“さぁ、歩君…、どうする?”
歩は、男の話を聞きながら考えていた。
今の記憶が消えてしまうのなら…、
今の状態で同じ年数を再び生き直すことになるのなら…、
そんな事はしたくない。
心も体も、到底もたないだろうと思った。
その後の結果がどうなるにせよ、あまり前には、遡りたくなかった。
どうして、あんな事をしてしまったのか、そのきっかけがあったはずだ。
その少し前に、戻って、自分の行動を食い止められないか。
歩は考えた。思いつく範囲で、自分の中で、時間を遡ってみた。
”そうだ…、あの日だ…。クソ…。”
思い当たる節があった。
歩は、前を向き、軽くこぶしを握り締めた。
僕の、人生を取り戻す…。
静かに決意をした。
”どうだ、決まったかね?”
橋の欄干から、男が話かける。
”はい。”
歩は、静かに、しかし、はっきりとした口調で返した。
”そうか。”
日が今にも沈みそうであった。
男が続ける。
”そうだ、こうしよう。”
”いつも君は、この橋を渡って、反対側の土手を川上(上流の方)の方に曲がって、家に帰っていたな…。”
”歩君。この橋を渡って、川下の方に(海側)に曲がったら、わしは時間を進める事にする。”
”反対に、川上の方(上流の方)に進んだら、時間を戻す。その時は、いつ戻るのか、頭に思い浮かべてくれ。その時間に戻してやろう。”
”分かりました…。お願いします。”
歩は、男の方を見た。
男も歩の方を見た。
お互いゆっくりと大きく頷いた。
歩は、橋の上を歩き始めた。一歩づつ、確かめるように。
分岐点に来た。
歩は深呼吸をし、心を決めた。
やや間をおいて、
川上(上流の方)の方に、踵を返し、ゆっくりと歩いて行った。
日が落ち、夕景が夕闇にのまれる寸前であった。
川面に目をやると、潮が満ち始めているのか、海から川へ水が逆流していた。
その時、対岸の土手のトイレの方から、白い光が上空へ向かって真っすぐ上っていくのが見えた。
男が、橋の上から、こちらを見ていた。
最初の頃の様に、軽く微笑んでいる様であった。
パチンと指を鳴らした。
そこまでは覚えている。
その先は、気を失った様だった。
眼を覚ますと。そこは、歩の自宅の部屋だった。
事故の一週間前の朝だ。ベッドで寝ていた。
携帯の目覚ましアラームが鳴っている。
”そうだ、この日だ。”
”大丈夫、覚えているぞ…。”
歩は、ぼんやりとした頭で、アラームを止め、
朝食をとる為、2階から1階のダイニングへ、階段を下りて行った。
(次号へ続く)
※本日もお疲れ様でした。社会の片隅から、徒歩より。
第2話。
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