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戦国その13 上杉謙信の家臣団と軍団その2 景勝・景虎の家臣団

上杉謙信の家臣団と軍団その2 上杉景勝・上杉景虎の家臣団と軍団のページです。

「 野伏する 鎧の袖も 盾の端も みなしろたへの けさの初雪 」
 
-上杉謙信-

 上杉謙信の家臣団と軍団その2

<謙信側近衆> 

<官僚派・山崎秀仙を筆頭に、謙信死後に景勝を擁立するが次第に政権中枢から遠ざけられる>

安田顕元 槍60丁・95名(*~1578)毛利・惣八郎・宗八郎・掃部助・景元。越中守景元の次男。謙信から顕の字を拝領する。信濃国飯山城主。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。「御館の乱」では景勝派の主力となる。新発田の叛乱に責任を感じ自害するという。<景勝との対立か?この遺恨が安田秀広の直江信綱殺害と結ぶ線でしょうか。>

直江信綱 槍200丁・305名(*~1581)長尾・大和守・景孝。関東上野衆、惣社長尾氏・長尾景貞の息。直江景綱に実子なく、直江家を継承する。1581年春日山城中にて毛利(北条or安田)秀広に殺害される。<関東管領の在地家臣団の取り込みに配慮された養子政策でしょう。のち「御館の乱」以降に恩賞の件で殺害された。名臣の系統なので本当のところの死因はふせられてるんじゃないでしょうか。>

新発田重家 (1546~1587)五十公野・右衛門・治家・因幡守。揚北衆。新発田綱貞の息。16歳で小田原城攻囲に軍功をあげる。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。1579年兄・長敦の病死により新発田家を継承。景虎派から景勝派に転ずるが、1581年恩賞の不服から叛乱する。1587年自害。

五十公野信宗 (*~1587)長沢・甚五郎・道如斎・三条信宗。元、能登の湯山城・長沢筑前守の家臣。上杉輝虎に召しだされ、揚北衆・新発田重家の妹婿。1579年五十公野家を相続する。吉江景堅とともに「披露・取成」を勤める。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。景虎派から景勝派に転ずる。1581年恩賞の不服から叛乱する。三条城主。

<越中魚津城殉職武将> 1582年6月 <上杉景勝に捨て駒とされた武将。元・謙信側近が多く含まれる。忠誠を試されるか。>

(上杉家譜代)

⇔山本寺景長 (*~1582)松三・孝長。定長(定景)の息。兄弟に勝長。室は鷲尾氏。上杉家一門。1578年「御館の乱」に敗北した定長の跡職を継承。弟は景虎に付き出奔。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。

⇔吉江宗信 (1505~1582)与橘・木工助・常陸介・入道宗闇。越後国蒲原郡の豪族。吉江景宗の息。1578年「御館の乱」に景勝方。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。息に景資、長忠。孫に(中条)景泰、寺島長資。吉江城主。

⇔吉江信景 (*~1582)四郎・資堅。喜四郎信清の息。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。<吉江佐渡守忠景の跡職を継承するとも。父・信清の事績と混同されるか?。>

⇔竹俣慶綱 (1524~1582)太郎右兵衛・三河守。1559年「披露太刀之次第」披露太刀之衆第十七位。第2期・謙信七手組④‘。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。織田家の柴田勝家と対陣し、1581年越中松山城主。1582年越中魚津城にて自害した12将のひとり・Ⅴ。揚北衆。竹俣城主。

⇔▽中条景泰 (1558~1582)(吉江)・与次・越前守・景盛。吉江景資の息。中条藤資(景資)の娘婿。兄弟に寺島長資、吉江長忠。年越中国魚津城在番衆。1582年中条景資が討死したことから、名族・中条家を継承する。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。息に三盛、資種、資春。

安部政吉 (*~1582)弐助・右衛門尉。上杉景勝家臣。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。息に吉真。<景勝の直参・坂戸衆の可能性あり。目付か?。>

▽阿部吉真 (*~1582)政吉の息。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。

寺崎長資 (*~1582)寺島長資・吉江長資。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。息に正貞。<1581年織田家に粛清された越中豪族・願海寺城主、寺崎民部左衛門尉盛永一族の跡職を継承するか?。>

寺島長秀 (*~1582)六蔵・六三・長資。吉江景資の息。弟に中条景泰、吉江長忠。寺島和泉守の跡職を継承して寺島長秀。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。息に正貞。<上記、同一人物か?。>

(北陸方面・他国衆)

石口広宗 (*~1582)采女。弟に内匠、兵部、大膳。北条高広家臣。1578年「御館の乱」に景虎方。降伏臣従する。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。

若林家長 (*~1582)九郎左衛門。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。<越中国人に若林氏あり。河田長親の与力。>

▽若林家吉 (*~1582)加賀一揆大将。

亀田長乗 (*~1582)小三郎。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。<加賀一揆に亀田氏あり。>

藤丸勝俊 (*~1582)新助。加賀国人。江沼郡赤尾城の城主。1555年朝倉教景(宗滴)に敗北。加賀一揆の大将。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。

蓼沼泰重 (*~1582)たでぬま・掃部助。弟に友重。1581年越中国魚津城在番衆。1582年柴田勝家軍の猛攻により落城戦死。<景勝の直参・坂戸衆の可能性あり。目付か?。>

柴田勝家 北陸道大軍団


<信濃衆第1・2世代>

(旗頭) 安田顕元 上杉景勝=武田勝頼との同盟後は信濃衆が主戦力。

 他国衆 1553年6月村上義清が越後に援助を求める。1561年「第四次川中島の合戦」に戦死者多数。

仁科* (*)清蔵。1559年披露太刀之衆、披露太刀衆第二十一位。<以降の消息不明。当該期の仁科安芸守・盛明は小笠原長時の娘婿。1548年「塩尻峠の合戦」に不参加。小笠原家没落の原因を作る。武田家に従う。信玄の五男・仁科盛信を養子とするか?家門を奪われたか?>

村山* (*)平次郎。1559年披露太刀之衆、披露太刀衆第四十二位。<以降の消息不明。為景の代に管領軍と対峙した村山盛義・直義親子の一門か?善光寺別当・栗田一族と縁戚。>

村上義清 (1503~1573)左衛門尉・周防守・兵部少輔。北信濃の豪族、信濃国葛尾城主。村上顕国の息。1541年武田信虎と同盟し、海野棟綱・真田幸隆を追放。1548年、1550年の武田家の侵攻を阻止する。1552年清野氏の離反で領土を維持できなくなり、越後へ落ちる。越後勢の加勢により塩田城を回復。1561年「第四次川中島の合戦」に先陣衆。1564年の「第五次川中島の合戦」にも国土を回復できず、越後根地城にて死去。

高梨政頼 (*)摂津守・刑部大夫。昌盛の息。北信濃中野小館の豪族。越後守護代長尾氏と縁戚関係を持ち、長尾為景の娘婿。中条藤資は婿(年齢的に娘ではなく、姉妹か)。中野城・飯山城主。1513年昌盛の死に家督。井上・栗田・海野・島津氏に攻撃される。武田家の将・高坂昌信により中野城は奪取される。1561年「第四次川中島の合戦」に先陣衆。1564年8~10月「第五次川中島の合戦」に左備えの将。<高梨=長尾=中条の縁戚関係有り。>

舟見規泰 槍70丁・101名(*~1598)須田満親・相模守・宮内少輔。北信濃高井郡の国人。須田満国の息。兄に満泰。1561年「第四次川中島の合戦」に先陣衆。1564年8~10月「第五次川中島の合戦」に本陣後備えの将。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。1584年海津城主。羽柴秀吉と景勝との間を取り持つ。子息は1598年会津移封に従う。<須田家は本家・須田信昌は武田派、分家・須田満親は上杉派に分裂。>

井上清正 (*)兵庫・播磨守・清政。1548年「千曲川・上田原の合戦」に参陣。井上城主。

井上昌満 (*)左衛門大夫。北信高井郡の豪族。信濃国井上城主。武田家に攻略され失領。越後に逃れる。1561年「第四次川中島の合戦」に先陣衆。<井上清政と同一人物?1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される井上肥後守は一族か?。>

島津昔忠 120騎 (*)左京介・常陸介・泰忠。北信の豪族。長沼城主。1557年武田家の圧力により退去。のち武田家に出仕し信濃に戻る。1582年「本能寺の変」後は景勝に従う。1600年景勝に従い出陣。<長沼城主、島津規久と島津忠直との関係不明、同一人物か?調査中。

島津忠直 (*~1604)淡路守。北信の豪族。信濃長沼城主。1561年第四次川中島の合戦に従軍。1598会津移封に従う。養子・島津玄蕃・利忠。<昔忠と規久、忠直との関係不明、同一人物か?調査中。

栗田鶴寿 160騎(1531~1581)小御堂主・善光寺別当・山栗田。北信の豪族。1557年武田家の圧力により退去。のち1570年に武田家に出仕し信濃に戻る。高坂昌信の与力。山県昌景の婿。1579年駿河遠征に従軍。「高天神城攻略戦」に戦死。子息は栗田永寿。<山栗田・善光寺、栗田寛明と同一人物?><城山城の(大御堂主)里栗田は上杉謙信方、旭山城の小御堂主(こすみ)山栗田は武田方。>

栗田寛安 (1525~1599)善光寺大御堂主・里栗田・刑部大輔・栄寿軒。栗田寛高の息。<上杉家に出仕したほうの栗田家でしょう。>

栗田国時 (*~1600)里栗田・刑部少輔・匡時。1548年「千曲川・上田原の合戦」に参陣。1553年上杉家を頼る。1590年景勝の命で信濃入り。大森城主。1600年国時は徳川氏に通じ討たれる。<善光寺大御堂主の刑部大輔、刑部少輔で分家でしょうか。>

清野* (*)北信の豪族。1552年村上氏から離反し武田家に通じる。

織田信忠の東日本征討軍

《個人的感想》 「御館の乱」では、春日山城の金塊を抑えた景勝が、経済的に困窮する武田勝頼へ軍資金を援助することで同盟が成立し、

 「向後の憂い」がなくなった信濃衆の強力な指示を得て、上杉景勝軍が優勢となる。

<上野衆>

(旗頭) 長尾謙忠(景連) → 北条高広(父)・北条景弘(子)  「御館の乱」に多くが北条景広に従い上杉景虎派に属したと考えられます。

 1560年「関東遠征」上杉憲政の旧家臣が配下に参じる。

長野業正 (*~1561*1563)五郎・信濃守・業政。長尾景春の娘婿。関東管領上杉家・上野衆。上野国、箕輪城主。1560年上杉景虎「関東遠征」に従う。

長野下定 (*~1560)長野一門衆。関東管領上杉家・上野衆。小幡信貞の国峰城を攻略する。1560年武田軍に攻囲され落城。上野国、国峰城主。

▽長野業盛 (1546~1563*1566)新五郎・左京亮・信濃守。長野業正の息。関東管領上杉家・上野衆。上野国箕輪城主。1561年に家督継承。武田信玄に攻略され自害。18歳。

▽上泉信綱 (*~1573)関東管領上杉家・上野衆。長野家家老。陰流・愛洲移香斎の弟子。新陰流創始者。業盛の死後は諸国を流浪し、足利義輝、柳生石舟斎を弟子とする。

由良成繁 (*)信濃守。関東管領上杉家・上野衆。長野景春の娘婿。金井城主。1562年「館林城攻囲」に従軍。

富岡重朝 (*)関東管領上杉家・上野衆。当初、館林城主・赤井照景とともに北条方。1561年「館林城攻囲」に参陣。

倉賀野直行 (*)尚行。関東管領上杉家・上野衆。1561年北条・武田軍に居城を攻囲される。上杉家の援軍・橋爪氏とともに倉賀野城を死守。1565年6月落城し上杉家を頼る。上野国、山上城主。

那波顕宗 (*)次郎。関東管領上杉家・上野衆。1577年12月謙信直筆の軍事動員名簿に登録される。上野国、今井城主。武田家では河窪与力。

後藤勝元 (*)左京亮。関東管領上杉家・上野衆。上野国、女淵城主。

斎藤憲広 (*)越前・太郎・一岩斎。関東管領上杉家・上野衆。上野国、岩柩城主。吾妻郡の豪族。武田方の鎌原幸重と抗争。羽尾幸全とともに「鎌原城攻略」。1563年真田軍に居城を攻略され越後に落ちる。

斎藤憲宗 (*~1565)関東管領上杉家・上野衆。1563年越後国に逃走する。上野国に戻り岩柩城奪還に挑むが戦死。

<長尾一族>

上野白井・下野惣社・下野足利・下野宇留窪・上総佐貫。

白井長尾家=上杉藤明が養子に入る。分家が越後長尾氏になる。景春が惣社・忠景を追い継承。

長尾憲景 (1511~1583)白井長尾・孫六・孫四郎・左衛門尉・景房・一色斎。上野国衆。白井城主。1560年上杉謙信の「関東遠征」を迎える。外山民部・大森兵庫助・神保兵庫助・高山山城守・小林出羽守・小島弥四郎・三原田弥四郎・上泉大炊助の八人を率い参陣『関東幕注文(上杉家文書)』。白井長尾・家老両職に赤見氏、牧和氏。

長尾憲春 (*)白井長尾。1561年「小田原城攻囲」に従軍。武田勝頼、織田軍・瀧川一益、北条家に出仕する。

長尾政景 (*)白井長尾・鳥坊丸。北条家に人質に出される。のち北条家に擁され白井城主となる。1590年「小田原籠城」に上杉軍に降服し、上杉家家臣となる。

(下野)

足利長尾家=山内上杉家執事。

長尾景長 (1527~1569)足利長尾・新五郎・但馬守・当長。山内上杉家家宰。長尾憲長の息。下野足利城主。関東管領・上杉憲政が越後落ちした後も北条家を防戦。1561年赤井照景に代わり上野国館林城主。

長尾顕長 (*~1621)足利長尾・新五郎・但馬守。景長の婿養子。金山城主・由良成繁の息。下野足利城主。のち北条氏に属す。1570年謙信に抜擢された館林城主・広田直繁を討つ。佐竹氏と結んだ佐野氏と抗争し、1585年「彦間の合戦」に佐野宗綱を討取る。

惣社長尾家=忠景が関東管領執事となり、嫡流の景春と対立。1564年武田軍の攻勢により越後に落ちる。

長尾顕方 (*)惣社長尾。惣社長尾・北条氏綱と結ぶ。

長尾景貞 (*)惣社長尾。1564年武田信玄の攻勢により、越後上杉家を頼る。

⇔▽直江信綱 槍200丁・305名(*~1581)惣社長尾・与兵衛・大和守・景孝。惣社長尾氏・長尾景貞の息。直江景綱に実子なく娘婿となり、直江家を継承する。1581年「御館の乱」の不満分子・毛利(北条 or 安田)秀広に春日山城中にて殺害される。

<武蔵衆>

 赤文字は敵対武将。家臣ではありません。

 1570年北条氏康から養子を迎え越相和睦。1571年氏政の代に破談。

太田資正 (1522*26~1591)岩槻太田・美濃守・三楽斎。武蔵国、岩槻城主。扇谷上杉家執事。太田資頼の息。1561年「小田原城攻囲」に従軍し先陣を務める。1562年北条家の圧力に対して謙信の遠征を要請。太田康資と結んで「国府台の合戦」に出陣。親北条派の息・氏資に居城を奪取される。

梶原政景 (*)岩槻太田。太田資正の嫡子。武蔵衆。

太田氏資 (*)岩槻太田。太田資正の次男。武蔵衆。父を追放し北条家に属す。

▽太田資時 (*)岩槻太田・源太。武蔵衆。<1556年器量を認められ謙信から養子に請われるという。>

<武蔵衆>

 赤文字は敵対武将。家臣ではありません。

成田長泰 (*)横山党、藤原氏。武蔵国、成田(忍)城主。関東管領・上杉家家老。長尾景春の娘婿、のち離縁。1546年山内上杉氏に従い「河越城攻囲」。敗北し北条家と和睦。1559年「関東遠征」の上杉謙信に攻囲され、1560年降服開城。1561年「小田原城攻囲」に従軍し第二陣を務める。鎌倉での関東管領就任式で上杉景虎と対立し、以後北条方として上杉家と抗争。上杉方の皿尾城主・木戸忠朝を攻撃。1563年2月北条方に属し松山城を攻略。後詰の上杉謙信に弟・小田家時の守備する騎西城を攻略され降伏。

成田氏長 (*)横山党、藤原氏。武蔵国、成田(忍)城主。父・長泰の降服に怒り、1567年忍城を奪取。小田伊賀守・別府兄弟が従う。羽生城の木戸忠朝を金山城に追う。1590年「小田原籠城」に参加するが、弟・泰親とともに大阪方に通じる。

小田家時 (*)武蔵衆。武蔵国騎、西城主。成田長泰の弟。

⇔広田直繁 (*~1570)菅原・木戸・式部大輔・出雲守。武蔵衆。武蔵国、羽生城主。木戸範実の息。弟に木戸忠朝。広田朝景の養子。1561年「小田原城攻囲」に従軍し第二陣を務める。1570年謙信から上野国館林城を与えられる。北条方の長尾顕長により謀殺される。息に菅原為繁。<源氏の総大将、源ノ頼義・義家の奥州征伐に従軍した菅原氏の後裔か。>

▽菅原為繁 (*)広田・左衛門佐。武蔵衆。武蔵国、羽生城主。広田直繁の息。叔父・木戸忠朝に養育される。1578年羽生城落城後、上野国厩橋城に退去する。

▽嶋田* (*)縫殿助。武蔵羽生城主・広田直繁家臣。日向城主。

木戸忠朝 (*~1578)河内谷・伊豆守・玄斎。武蔵衆。武蔵国、羽生城主。広田直繁の弟。上杉謙信に抜擢され皿尾城主。離反した成田氏の抑えとなる。広田直繁の戦死後、上杉方として羽生城を死守。1578年落城。

▽木戸重朝 (*~1578)右衛門大夫・木戸忠朝の息。上杉方として羽生城を死守。1578年落城。

▽木戸範秀 (*)和泉守。木戸忠朝の息。上杉方として羽生城を死守。1578年落城後、上野国厩橋城に退去する。

大石芳綱 (*)惣介。武蔵国衆。

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