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セルフネグレクトと心理的負債
またn=1の話をしてる……
基本的にこのブログは私の個人的見解でしかなくてエビデンスも何もあったものじゃないけど、特に今回は「私個人の話」がベースなので、自分はこうだったという話でしかない。エッセイ的なものだと思ってほしい。
ムシバミ
――見た目よりも奈落(アビス)の底は深かった。
セルフネグレクトという言葉がある。薄々気づいていたが、どうやら自分にもそういう傾向はあるのではないか、と最近思った。
気づいたのは歯医者に行って、虫歯があると発覚した時のことだ。歯が少し欠けていたことで気づいたのだが、見た目よりも内部の侵食が酷くてびっくりしてしまった。
しかし同時に、その時自分はホッとした。そう「ホッとした」のだ。
ああやっぱりそうなのか、ようやくそうなったのか、と。まるでそうなることを自ら望んでいたかのように。そうなることで何かから解放されたような気さえした。
そこでふと思ったのである。これはセルフネグレクトというやつではないか、と。
思い返せばこうなることは当然であった。不規則な生活で昼夜がよくわからなくなってルーチンが崩れた。全般的に身の回りのことについて雑になり、風呂キャンセルならぬ歯磨きキャンセルも何度もやった。
つまりこの結末は自分でもわかっていて、それどころか意識的に、ある種望んでそうしたものだったのではないか。
そう考えてみると、思い当たる節は色々とあった。
わざわざ仕事に夜勤を選んだのもそうだ。その理由の一つは自分の体内時計を壊すため。そう、壊すためだ。もちろん自分としては色々な理由はあるが、やはりそれもまわりくどい自傷行為だったのかもしれない。
では、どうしてそのようなことをしてしまうのか。それが今回の本題である。
どうして人は……ではなく私はセルフネグレクトをしてしまうのか。
無償の愛はこの世に存在しない
サブタイトルのこれは、私の基本的価値観であり信念の一つである。とんでもない言説だと思うかもしれないが「この世に」というのがポイントである。
私は本来「愛」とは無償のものであると考えている。一行で矛盾しているではないかと思うかもしれないが、矛盾していない。
無償の愛、本来的な意味での愛とは概念である。概念は完全であるが、完全であるがゆえに、現実には存在しえない。
例えば、「直線」の数学的定義は長さが無限で太さはゼロだ。(ちなみに長さが有限のものは直線ではなく「線分」という)
しかし、この直線はこの世界、三次元世界では完全な形で表現できない。教科書に書かれた直線の長さは有限で、太さも存在する。あくまでそれらしいものを近似して表現しているだけなのだ。
私は「愛」も同じ概念だと思うのだ。
無償の愛、完全な愛という概念はある。しかし、現実世界ではそのような完全な愛は表現できない。どうしても人間は愛に見返りを求める。現実の愛は必ず有償なのである。
(もちろんだからといって、完全な愛の概念が欺瞞であったり無意味なものだというつもりはない。人間は「現実には存在しない概念、理想状態を定義することで思考を深めることができるのだ。数学でいう直線や円、物理でいう真空や剛体、そういった概念が人間の思考を多いに助けてきた)
理想的な概念は必要だが、その概念を扱う際はそれが現実には存在しない、と理解して使うべき、というのが私の考えである。
もちろんこの考えがある種極端なものだという自覚はある。
そんな風に考えても幸福度が下がるだけではないか、とも。
だが少なくとも私はそう考え、頭の奥深い部分までそう信じているのだ。
親と子・オーナーと社長
しかし先述した「無償の愛は存在しない」――この価値観を前提にして親子関係を認識しようとすると、一般的なイメージである愛し愛される関係とは全く別の解釈が成り立つ。
それはいわば、出資者(オーナー)と社長の関係である。
出資者とは親であり、社長とは子供である。
子供は親に出資を受けることができる。しかし、その分の見返りが求められる。
出資を受けた社長の場合なら、見返りとは売り上げの幾らかのリターンとして返したり、出資者に対して特別なサービスを行ったり、あるいは物理的なバックがなくとも、少なくとも出資者に対して最初にプレゼンで述べたような理念を形にして実現させる……そのような責任がある。
親子でも考え方は同じだ。子供の場合は親の出資に対し、例え物理的、金銭的なリターンは求められなくとも、親の理想に近づくような振る舞いをしたり、親が求める成績を上げて見せたり、そういったことが必要になる。そうでなければ「じゃあ何のためにお前に出資した(世話した)んだ」となる。
いやお前の考え方は極端すぎる。そんなことを言い出すのは毒親だけだ。まともな親なら子供を無償に、無条件で愛するものだ、と言うかもしれない。しかし私は、程度の差はもちろんあるが、全ての親に子供に対し自分の理想通りになって欲しいというエゴは存在しているし、そのエゴによる子供を誘導しようとする力は無意識であってもはたらいているはずだ、と思う。
もちろんそれは、極端な白黒思考によって愛に完全性を求めるからそんなことを言い出すだけで、実際もっとざっくりと「無償に近い愛」を「無償の愛」だということにすればそれで良いのかもしれない。
だが、ともかく、私にとっては、有償の愛に基づいた出資者と被出資者の関係、が親子関係だったのだ。
とても歪んだ認知かもしれないが、私にとってはそうなのである。
これを踏まえた上で次の話に移りたい。
ケア(出資)を受けるとは負債を積み上げること
標題こそ私の認知の結論である。なぜそういう認知に至るのか、これから順を追って説明する。
セルフネグレクトの対義語(?)にセルフケアという言葉がある。しかし、子共にとってセルフケアなるものができるのは成長してからの話だ。
基本的に子供というものは――特に生まれたばかりの子供は――ケアとは自分でするものではなく、まず親から受けるものだ。乳児の状態ではほとんど全てのケアを親にしてもらい、成長するにしたがって少しずつそのケアを自分自身で行うようになる。
ネグレクト家庭の場合はそのケア自体が不十分というパターンであるが、私の場合は別にネグレクトではない、むしろどちらかというと過保護・過干渉に類する家庭であった。
なので、基本的なケア自体は十分に受けることができた、と思う。
だが、子供にとってのケアとは親からの出資である。そして、出資を受けるなら、責任が発生する。そう、出資者の期待に応える責任だ。
生まれた直後ならともかく、成長するにすれ、親は子供に相応の成果を求めるようになる。
それは日常の振る舞いであったり、学校の成績であったり様々だ。しかし私は「出来損ないのカス」なので、その期待に応えられるほど有能ではなかった。
そうなると、子供(社長)としての責任が重く感じる。
自分が親からケアを受けられるのは、親の期待通りになると期待されているからである。逆にそうでなければ親は出資している意味がないという理屈だ。
しかし子供の立場からすると、そもそも義務が発生するのは権利を享受しているからだ。つまり親のケアを受けている立場だから、親の意向を汲む義務が発生してしまうのである。
言うならはこれは心理的な負債だ。親のケア(出資)を受けてそれ相応のアウトプットが出せなければそれは契約不履行、実質的な負債。融資ではなく出資なら負債ではないだろうと思うかもしれないが、心理的には負債だ。
親子関係の厄介なところはオーナーと社長と違い、その出資関係が最初から決まっていること、そしてそう簡単に打ちきれないことである。
だから親はどうにかして子供にアウトプットを出させようと求めるし、それができない子供にとってはただただ重荷である。こんな関係最初からなければ良かったと思うくらいには。
そういうわけで、私は他人からケアを受けるのが嫌いだ。見返りを求められているような気分になるし、その分何か返さなければと思ってしまう。その心理的な重荷がたまらなく嫌なのである。
言い方を変えれば、リターンなしでケアを続けられる人間など存在しないと思っていると追うことだ。私はそこまで人間を信じていない。
一見尽くすタイプの人間もその本質はエゴであり、自分の心理的な欲求を満たすための行為であるため、しばしばこちらに何か役割を押し付けられる。そう言う意味での「有償」である。例え悪意はなくとも悪いことは起こるのだ。
だから私は、例えば誰かと一緒に暮らすとかそういうのは苦手なのだ。
友人関係でいるうちはいいが、それ以上の、何かケアを受けたり与えたりする親密な関係にはなりたくない。私にとってそれは重荷なのだ。なぜなら「義務」を発生させる行為だから。私の中ではそう認知されているから。
そこまで考えて「あれ?」と気がついた。
これは他人からのケアを嫌がる理由にはなるだろう。しかしこれではセルフケアを怠る理由にはならない。セルフネグレクトの理由にはならない。自分の中で自己完結すれば負債は発生しないではないか。というか、それが目的で一人暮らしをしているんじゃないか、自分は。
なのに、なぜ、セルフネグレクトをしてしまう?
問いはまだ終わらない。
お前はケアを受けるに値する人間ではない
掘り返して考えると、結局サブタイトル通りの――そういう考えが随所に見られる、ということに気づいた。
例えば外食で店を選ぶ時、あるいは新しい服を買おうとして服を選ぶ時。
「自分はそんな立派な、こんなサービスを受けるに値する人間ではないのでこれくらいで……」みたいな心理がはたらく。
外側から見れば単純に節約しているように見えるかもしれないが、別に節約しているわけではない。その時に考えているのは金のことというより自分の価値のことである。値段は確認しているが、この値段が払えるか、自分の収入と比較して妥当か、というよりは「自分は人間としてこのサービスを受けるに足るレベルか」みたいな感じで自分を値踏みしているのだ。
しかしそこまで思い至れば、結局ありふれたパターンだなと気がついてうんざりしてしまった。
要するにこの思考パターンは、自己肯定感が低い人間にありがちなものなのだ。「自分は幸せになる資格がないと思っている」などとのたまう人間は、大抵このような考えを多かれ少なかれ持っている。いわゆるメンヘラである。
自分もまたよくあるセルフネグレクトのパターンに嵌っていただけにすぎないということだ。
じゃあこれをどう改善するかという話だが、たぶんこの手の話は最も大きなハードルは「自分がそういう状態になっている」と気づくことであり、気づけばあとは意識して行動を改善すること……それが最も有効な、あるいは唯一の解決策なのかもしれない。
なぜそう思うに至ったかは元々自分が「出来損ないのカス」だからそういう感覚が身についたということであろうが、しかしカスを今更カス扱いしたところで特に生産的な行いともいえないだろう。むしろ、そんなことに力を注ぐより一秒でも多く労働した方が世の中のためになるというものだ。
カスはカスなりに何かしらはたらいて貢献せよということで、そしていわばセルフケアも働くための努力なのである。本気で機械をフル稼働させようと思ったら、そのメンテナンスは欠かせないのだ。
そういうわけで、これからは「堕落する暇があればはたらけ」をスローガンにしていきたい。堕落して不摂生で死ぬより過労死する方が世界のためなので、死ぬまではたらこうと思う。という意気込みで生きていきたい。真剣にはたらくということは、真剣に自分をはたらける状態に維持するということだ。
本来この手の話題で出てくるであろう自己愛とかそういう概念は、今の自分には難しいので、ひとまずそう考えておくことにする。