「不登校生の校外学習を成績に反映」に法的根拠を与えるって、どうよ。
一定の要件を満たせば、校外での活動(学習など)を学校の評価に反映することは、すでに2019年に初等中等教育局長通知によって通知されている。
だから、何をいまさらと言われるかもしれない。
しかし、今回気になるのはそれに法的根拠を与えようとしていることだ。
申し訳ないが、私から見ると「文科省はまた、的外れなことしている」としか思えない。
そもそも不登校というのは、既存の学校に合わないから登校できなくなっているのである。
校外の活動を評価に入れるということは、教育支援センターなどの活動までも「学校」のなかに取り入れようとしているのと同じだ。
教育支援センターなどの機関が、学校っぽくなればなるほど不登校の子は来にくくなるではないか。
しかも、それを法制化しようというのである。
通知と法は全く拘束力が違う。
おそらく教育支援センターに通う子どもの保護者は、支援センターでの活動に対して「学習活動」を増やしてほしいと要求することが増えるだろう。
学校でもなく、家庭でもない、第三の場所であるからこそ教育支援センターは存在意義を持つ。
そして、多くの子の「居場所」となることができる。
そこへ「学校的」な要素を厳格に持ち込んでしまったら、それこそ教育支援センターへの「不登校」を生み出してしまいかねない。
かつてイリッチが脱学校論の中で述べていたように、社会の「学校化」は人々にとって大きなマイナスになる。
一つの基準や価値観がことさらに重視され、浸透していけば、人々、特に子どもは自ら考えることをしなくなる。
そもそも不登校のとらえ方が間違っているのではないか。
不登校は、よくないことなのではなく、今の学校に対する警告なのだ。
学校の在り方を根源的なレベルで考え直せという警告なのである。
文科省は不登校という現象に対して、それを問題行動とはしないと言いながら、明らかに「問題視」している。
だから、視点が不登校の側にしか向けられず、既存の学校の改革に向けられない。
その結果、打ち出される施策はすべて「対症療法」になる。
本当に校外での学習成果を生かそうと思うなら、調査書を合否の判定に用いない(点数化しない)ことを義務づけるべきだ。
福岡県ではすでに取り組みを始めている。
不登校の子どもや保護者が最も心配しているのは、将来のことであり、目の前の進路のことである。
福岡県のように調査書の評定を入試に勘案しないことを公表すれば、不登校の子たちは「自分が身につけた学力の分だけ進路が開ける」と感じることができ、希望を与えるに違いない。
そもそも、調査書に頼らなければ学校に引き留められないと考える思考そのものが、不登校の増加に拍車をかけているのだ。
行政機関は学校外でも学習や体験ができる場を多彩に準備すればいいのである。
「学校」を持ち込んでも不登校の子の苦しみは、増えることはあっても、減ることはないだろう。