研究者が実践にシフトする危うさ
教育に関する実践書を大学教授が書いているという本をしばしば見かける。
まあ、監修として名前だけを借りるレベルの場合もあるから、実際、どこまで学校現場に関わっているかは、タイトルや目次だけではわからない。
しかし、中には大学の教授や助教授が学校に日常的に入り込んで、実際に授業までしていることさえある。
そのパターンがどうも最近増えているように思う。
これは、大学教育に対する文科省の姿勢も反映していると思うのだが、とにかく実践主義なのだ。大学のセンンセイが、である。
私は、大学のセンセイが実践家として入り込み過ぎることに強い違和感を覚える。
大学は研究の場である。
学校現場に入るとしたら、それは研究の効果を確認するとか、研究の方向性を探るためであるはずであるし、そうでなくてはいけない。
実際、私は大学で研究を生業とする人たちは専門分野の研究論文や過去の文献を必ず原書(原文)で読んでいるんだと思っている。
そういうことを地道にするためには、かなりの時間と労力が必要である。しかも新しい論文は毎年かなりの数が出されるだろう。
学校現場に(助言くらいはできても)どっぷりと浸かって教員と行動を共にする時間はないはずだと思うのである。
もう一つ、違和感の正体がある。それは、なぜ学校現場の「教えるプロ」を差し置いてあなたが授業をしなければならないのか、ということである。
手本を見せるという意味もあるのかもしれないが、それなら、1回やれば十分である。
しかし、どうも「実践書」の中には、かなりの回数同じ学校で授業をしているのではないかという内容にしばしば出会う。
厳しい言い方をするなら、そんな暇があるならもっと本質的なことに時間を使ってほしいと強く思う。
確かに近年の文科省における大学への締め付けは目に余るものがある。補助金を出している強みかそうかは知らないが、大学のシラバスにまで注文を付けているらしい。
そんなことをするから、大学のセンセイも本来の研究よりも「役に立つ」実践に走ってしまうのである。
あまり世間で話題にはならないが、こうしたことの弊害は、かなり大きい。
大学のセンセイは、学校現場の先生が困ったときの拠り所にできる「理論」を提示するのが本業のはずだ。
そもそも、すぐ役に立つものは、すぐに使えなくなるのが世の常である。
多少世の中が変わっても、行き詰った時に頼れる理論を提供してほしい。
少し前に流行って、今でも学校現場に残っている「〇〇学校スタンダード」などはその典型である。
あれが流行ったとき、多くの大学のセンセイが学校現場に入り、その効果を熱弁し、中には長期にわたって関わり続ける人もいた。
しかし、10年もしないうちに、今では多くの非難を浴びている。
多様化が進んでいるのだから、型にはめることを良しとするメソッドが子どもに合わなくなって当然である。
「〇〇スタンダード」は明らかにメソッドであり、「理論」ではない。
大学のセンセイは、スタンダードの拠り所となる「理論」をもっと強調すべきだった。
いや、はっきり言えば、理論的根拠がなかったのではないかと、私は考えている。
滑稽なのは、大学のセンセイが学校現場でその必要性を熱く語った「〇〇スタンダード」を批判的に論じているのは、学校現場にしょっちゅう入り込んでいる大学のセンセイたちなのである。
スタンダードを否定したその後に出してくるのがまたメソッドだったということのないように、ぜひお願いしたいものだ。