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偏見ということ
偏見というのは文字通り、「偏った見方」という意味です。
この偏見が多くの誤解や差別を生み出していることは、誰もが知るところでしょう。
私は、偏見の種(たね)のようなものがあると思っています。
それは人々をその属性によって「十把一絡げ」にする視点の中にあります。
例えば、日本人というのはこういうものだとか、最近の若者は……などといった具合です。
いわゆる「ステレオタイプ」の物言いです。
そうした物言いは、学問的に妥当と言われる調査や研究によって示されることもありますから、すべてが悪いとは思いません。
けれども、たとえそうした結果であっても、あくまでも全体の一部を明らかにしているにすぎないのです。
このことは不登校の原因を考えるときにもあてはまります。
最近の子どもがひ弱になったからだ、親の育て方が悪いからだ、先生の不適切な関りのせいだ、などなど。
これらの見方は、ある一面において正しいかもしれません。
けれども、そうした見方、例えば子どもがひ弱になったという、ただその一点ですべてを語ろうとしてしまうのは避けなければなりません。
なぜなら、一般的傾向はあくまでも「平均」であって、ある個人の傾向であるかどうかはわからないからです。
不登校の原因は、一人ひとり違うのです。
例えば、円柱に対して真横から光を当てれば映し出される像は長方形になります。
しかし、同じ円柱でも真上から光を当てれば、映し出されるのは円となります。
そのため同じ円柱に対して「これは長方形だ」と言い切ったり、「いや、円に違いない」と断言したりといったことが起こるわけです。
私たちは時として、映し出された影の方を実態と勘違いしてしまいます。
つねに、全体像を想像しようとする視点を持たなければ相手をありのままに見ることができないだけでなく、「だからだめなんだ」という否定的な見方を抱えてしまいます。
相手をありのままに見ることは容易ではありませんが、常に「他に何かあるかもしれない」という視点で相手を見続ける姿勢が偏見をなくす第一歩だと思うのです。