人間の定義
教師は子どもの自立を願っています。
いや、教師だけではなく、保護者も同じです。
自立とは、辞書的には次のような意味です。
人間は不完全で、非常に弱い存在として生まれてきます。
生まれたばかりの赤ん坊は、誰かの助け(庇護)がなければ一日たりとも生きていけません。
スイスの生物学者、アドルフ・ポルトマン(Adolf Portmann、1897-1982)が「人間の新生児をあたかも1年間『生理的な(通常化してしまった)早産』の状態で出てきた者とみなした」1)(いわゆる「生理的早産」)ことは、有名な話です。
ポルトマンは、人間は、他の哺乳類に比べて早く生まれ、ゆっくりと成長・発達することで高次な行動を身につけ、個性を育むことができると主張しています。
辞書的な意味とポルトマンの主張を併せて考えると、人間は不完全な存在で生まれて、「ひとりだち」することを目指す存在であり、最終的には「他の力をかりることなく」生きていけるようになること、それが「自立」だということになりそうです。
ここまでが、世間一般で言われている(あるいはイメージされている)「自立」の意味です。
けれども、どうも気になるのです。
極論だと言う誹りを恐れずに言えば、
「自立」することが、他の人の手をかりなくても生きていける力であるとすると、人は孤独になるために生きていることになってしまいます。
それに、いったいこの世界のどこを探せば、誰の支えもなく生きていける大人が見つかるのでしょうか。
辞書の意味としては理解できても、実際の人生のなかで考えれば納得がいきません。
私は、まったくの逆ではないかと思うのです。
つまり、人が「自立」するということは自分が生まれたばかりのときには、全くの無力だったことを自覚した上で、生きている限りは必ず誰かの助けを得なければ生きていけないことを自覚すること、それが「自立」した大人の姿だと思うのです。
私は、不登校の子どもが苦しみを抱えながらも誰かに頼ることをためらってしまう場面に何度も出会ってきました。
それは、もしかしたら、私たち大人が知らず知らずのうちに「自立」を「自分の力で生き抜くこと」という辞書的な意味だけを伝えてしまった結果なのかもしれません。
「誰かに頼るのは自分がしっかりしていないからだ、悪い(弱い)のは自分なんだ」と彼ら(彼女ら)を必要以上に追い込んでいるのかもしれないのです。
私たちは、「頑張れ」「しっかりせよ」と言う前に、
「自立とは、誰かに頼れる力を身につけるということだ。困ったら、遠慮なく誰かに頼ればいい。それが人間だ」
というメッセージをもっと強くする必要があると思います。
1)岩内亮一・萩原元昭・深谷昌志・本吉修二(1997)『教育学用語辞典 第三版』学文社、165頁