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お金を払ってありがとうを言う自由

スーパー等で買い物をしたとき、レジの人は「ありがとうございました」と言ってくれます。
でも、その時に客の方(ほう)も「ありがとう」と言うことがあります。
この話は、先日ラジオでどこかのお寺の住職さんが話していました。
その住職曰く、外国ではこういうことはあまり見られないそうです。
全ての日本人が同じようにするわけではないでしょうが、私もコンビニなどで、会計が終わった後にアルバイトの店員さんに、「ありがとう」と言います。
ほとんど違和感はありません。

考えてみれば、お金を払っている方(ほう)に「ありがとう」と言う義務はありません。
よく言われることですが、「ありがとう」というのは「有難し」から生まれた言葉で、「有ること」が「難(かた)し」、つまり、なかなか「ない」という意味です。

ここからは、私の憶測ですが、私たちの気持ちの中に、店員さんに会計をしてもらっている、という意識があるから「有り難し」が成立するのだと思います。
たとえお金を払っている側であっても、その店があるからこそ自分の買いたいものが買えるし、店員さんが会計を処理してくれるから品物を手にすることができるのです。
店員さんは仕事の一つとして会計をしているのですが、その行為は明らかに私のためにしてくれたものです。
客の方(ほう)が立場が上だからと考えて横柄な態度をとるのは、それは店員さんの行為をお金のためにすぎないと理解しているからでしょう。
同じ行為をどう解釈するかは行為をされる方(ほう)の自由です。 

人間にはどんな時も選択する自由があると言ったのは哲学者のフランクルですが、彼の言う自由には選択が生み出す結果に対する責任を「享受する」自由も含まれるのです。
自由があるから選択でき、選んだ責任が生まれます。
でもその責任は「取る」ものであるだけでなく、その選択の結果生まれる幸福感や充実感を「享受する」自由でもあるのです。自ら選ぶからこそ得られるのです。

東京都は「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」を令和7年4月1日から施行することを決めました。
カスタマー・ハラスメントとは、顧客による著しい迷惑行為のことです。
こういう条例が必要になったことは非常に残念です。
しかし、極端な迷惑行為をする人は、果たして自分の心は充たされるのでしょうか。
おそらく、興奮し、激高しながら、とても嫌な気分になっているでしょう。でも、それを選択したのはその人自身です。
そういう人は、自分が選択した結果であるとは思っていません。
それは、行為の後にやってくる幸せの道を自ら塞ぐ選択をしたということでもあるのです。

災害に苦しむ能登の支援を積極的に行っているNPO法人「カタリバ」から「ニュースレター」最新号(2025年1月1日発行)が届きました。
そこにこんなことが記されていました。

「支援現場に駆けつけてくれた「東日本大震災のときに子どもだった若者たち」の存在にも勇気づけられました。「あのとき助けてもらったから、今度は自分が力になりたい」そう言って、能登の支援活動に参加してくれました。」

「東日本大震災のときに子どもだった若者たち」は、自らの選択として能登に駆けつけました。だからこそ、そこから生まれる責任と結果(充実感など)のすべてを享受することができるのです。

現代の若者を批判的に語る人は少なくありません。
でも、こうした若者の存在は学校教育の一つの成果だと教師は胸を張ってもいいのではないかと思うのです。
そのうえで、学校の中で子どもたちに選択する自由と責任を享受する喜びをさらに強く伝えることが大切だと思うのです。
責任は自由であるための条件ではありません。責任と自由は同時に存在するものなのです。

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