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「正しい」日本語があるわけではないのです

優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語

https://news.yahoo.co.jp/articles/f4e340fc007709ffa66553e96e7d762ec8d44a16

俵万智さんの歌です。

実にいい歌だなあと思います。
日本人の優しさが歌から浸み出してくるようです。


最近、「マルハラ」というのがあるそうです。
「ハラ」はハラスメント。
「マル」は、なんと句点(。)だそうです。

上司や年上の人からのLINEやメールの文末に、「。」がついていると、若い人は、高圧的だと感じることがあるそうです。

私のような還暦過ぎの人間からすると、文の最後に「。」をつけない方が気持ち悪いし、相手にも失礼だと感じてしまいます。

でも、どんなに「。」をつけるのが正しい日本語の形だと主張しても、それを受け取る方が「嫌だ」と感じている事実は変えられません。


そもそも、正しい日本語なんて世の中に存在しないのです。
元国語教師が言うのだから間違いない(と思う)。
なぜなら、言葉は絶えず変わっていくものだからです。

本当に正しい日本語が存在するなら、平安時代の言葉を正しい日本語として今でも使っている人がいてもおかしくないはずです。
でも、そんな言葉を使っている人は、大河ドラマのの中でさえ一人もいません。

広辞苑などの定評ある辞書(辞典)のあり方を見てもわかります。
そこに載せられる言葉は、必ず定期的に見直しがなされています。
使われなくなった言葉を削除し、今まで載せていなかったけれど世の中で多く使われるようになった言葉を新たに追加しているわけです。
正しくない日本語を権威ある辞典(辞典)が掲載するとは思えません。
結局、正しい日本語とは、「今、正しい」というだけで、未来永劫正しいとは限らないのです。

だから、私は国語の文法の授業でよく生徒(中学生)に言ってました。

「間違っちゃいけないぞ。日本語が先にあって、それに対して文法というルールがあるんだ。言葉がなければ文法なんてありえない。言葉は生きものなんだ。だから例外もたくさんある」

要は、言葉にとって重要なのは「今、この時」に相手にちゃんと自分の思いが伝わるかどうかであり、文法はそれを実現するための共有すべき一定のルールとして意味があるわけです。
同じ文法をお互いが共有していないと誤解が生じやすくなるから、文法の勉強が必要なわけです。
でも、結局は言葉(日本語)は絶えず変化しているわけですから、文法もそれに合わせて変化して当然なわけです。

そもそも、そうした変化を認めずに「正しい日本語を使え」とことさらに言う人は、何をもって「正しい」と判断しているのでしょうか?
まさか、広辞苑を拠り所にしているわけではないですよね。

そういう人は、若い人が使っている言葉をすぐ否定しますが、おそらくそれは、自分たちが使ってきた日本語が通じなくなることを恐れているからだと思うのです。

言葉には意味があります。
とうことは、そこに何らかの価値が付随します。
自分たちが信じてきた言葉が廃れていくのを嫌がるのは、自分たちが大切にしてきた価値や生き方を否定されるように感じるからでしょう。
そういうとき、最も手っ取り早い対処法は、相手を否定することです。
つまり、「最近の若い奴は、よくわからん」「なってない」となるわけです。
でも、こういう言い方は紀元前古代ギリシャの大哲学者プラトンの書にも書かれていたと言われています。
日本では、平安時代にも記録が残されているそうです。
どの時代でも、新しいものや、理解されにくいものは否定されがちです。


言葉や文法が、互いのコミュニケーションをしっかりと築くことが最も大切な機能であるのと同じように、学校は生徒が教師や仲間と信頼し合える場であることが最も大切なことです。
校則を頑なに変えないなど、学校の「形」にこだりすぎると、最も重要な価値を見落としてしまいます。
校則が先にあって、子どもをそこに嵌めこもうとするのが正しい学校のあり方ではなく、今を生きる生徒が先にあって、社会的背景を含めたその生徒の状況に応じたルールとして校則があるのです。
つまり、学校をどう変えていくかが先にあるのではなく、これからを生きる子どもたちに必要なことは何かを考えることが先なのです。

いつの時代にも変わらない「正しい」日本語が存在しないのと同じように、どこかに「正しい」学校があるわけではありません。
だからこそ、今、このときの「最適」を求め続けなければならないのです。


日本語の「形」(句点)をモチーフにしながらも、俵万智さんの歌がこれほど美しいのは、言葉が読む者の心を響かせるためにあると信じているからなのだと思います。




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