【歴史小説】天昇る火柱(7)「未来」
この小説について
この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。
彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。
そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。
その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全てを捧げる驍将、畠山尚慶。
弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
本編(7)
「お前は、どうしてあの爺さんと一緒にいるんだ」
「助けられた」
暗がりの中で、藍紗の声だけが聞こえてくる。灯皿の明かりも吹き消していた。
汗ばんだ互いの肌が、腕と、首筋と、胸と、太腿で触れ合っている。
「九州で奴婢に落とされていたあたしの噂を聞きつけて、わざわざ人を寄越して、買い戻してくれた。恩人だ」
「そうか」
新兵衛はうなずいた。東山内の夜は、古市の町中よりもよほど騒がしい。葉擦れの音、鳥や虫、猿の甲高い声。
「だから筒井に手を貸し、生まれ故郷を裏切るのか」
「あんたにはわからん」
「ああ、わからんさ」
互いに突き放すような口ぶりだが、睦言らしい気安さもそこには混じっていた。
「だけど、わかることもある。俺たちは未来を生きられるってことだ」
「未来?」
「ああそうだ。過去がどうであろうと、未来はこれからの生き方で変えられる。俺はそう思って、故郷から出てきた」
二人はしばらくの間黙り込んだ。たなごころの内で、今しがたの言葉を転がし合っているような沈黙。
「なあ」
「うん?」
「俺の未来に賭けてくれないか、藍紗」
「あたしを、汚らわしくは思わないのか」
「汚らわしい?」
新兵衛は首をかしげていた。そんな風に感じること自体が、ひどく悲しいことではないのか。
「俺は元々、この世にいらない人間だった。兄だけが、俺を求めてくれた。だから俺は、兄のために生きると決めた。そうすればきっと、未来は開かれる。それ以外に生きる道はないんだ」
筵の上で顔を向けると、闇の底で仄明かりを溜めているものがあった。二つの大きな瞳だ。
新兵衛は肘を立て、肩を回しながら女の首筋を抱きすくめた。
「いつか二人で、天竺の向こうまで行こう、藍紗」
相手もこちらの背中へ腕を巡らせてきた。頰を濡らす涙が、汗と混じり合って首元をしとどに濡らしていた。
「新兵衛」
「ああ」
「あたし、お母さんを捜しに行きたい。まだどこかで、生きていると思うから」
鉢伏山から、土埃を蹴立てて人馬が駆け下りてくる。
「なんじゃ、ありゃあ」
猿丸は馬沓の藁を編む手を止め、そちらを見上げた。
胴丸、腹巻もみすぼらしいが、薙刀の穂先はぎらぎらと飢えたように輝いている。
新兵衛は音もなくその背後に回り、年嵩の小者の腕をひねり上げると、荒縄でたちまち後ろ手に縛り上げた。
「ちょ、新兵衛どの。何をしとるかい」
「猿丸、お前はきっと筒井勢と戦おうとするだろう。そうすれば、傷つく者も出てくる。事が成るまで、ここで大人しくしておけ」
「い、一体何を」
小柄な初老の体をねじ伏せるのは、わけもなかった。猿轡を噛ませ、足首も縛り上げて、厩の中へ放り込んだ。やってみれば、我ながらひどい馬鹿力だ、と思えた。
「悪く思うな。これも郷のためなんだ。仔細は、あとで話す」
稲藁の山へ向かって声を投げつけると、傍らの馬に飛び乗り、新兵衛は一心に郷の北口へ向かって駆けていった。
惣領館には、既に梅鉢の旗印が翻っていた。他でもない、筒井氏の家紋だ。
普段はがらんとしている主殿の広間に、どやどやと人が詰めていた。誰もが埃っぽい、くたびれた具足姿だ。
新兵衛が無遠慮に入っていくと、怯えて血走った目つきで、一斉にこちらを睨み返してきた。が、すぐにほどけたような面差しに変わった。微笑している者さえいる。
上段の畳の上に、木彫りの仏のような姿が鎮座していた。螺鈿細工の脇息に、立てかけられたように傾いている。
その傍らには、梅色の小袖袴に腹当をつけた異人の娘が、きちんと正座していた。
「赤沢新兵衛、まことに大儀であった」
西方胤栄は破鐘のような声を発した。
「いや、俺は何もしておりません」
「何を言うか。そなたの手引きがなければ、筒井の手勢も敢えて古市へ乗り込もう、などという踏ん切りはつかなかった。此度の勲功、そなたこそ第一であると認めようぞ」
しわぶきのように笑う。ひどく上機嫌なのだとわかった。
「懐かしい座り心地ではある。実に二十年ぶりにもなるか。あれから全てが変わったの。世も、人も」
「良いように変わっているんでしょうか」
「むろん、悪い方にじゃ」
くわっ、と目を剥いて言い放った。
「だからこそ、このようなわしが、再び矢面に立たねばならん。おのれをはぐくみ育てた、この生まれ故郷が滅びてゆくのを黙って見ているのは、あまりに忍びないものでの」
遅れてきた英雄のように、四肢のない老人は顎をそびやかしてみせた。
「時に新兵衛、宗益殿の軍勢はまだか。我らは時を同じくして古市へ攻めかかる手はずであったが」
「はい、間もなく」
新兵衛はうなずき、低い上目で答えた。
「間もなくやってまいるでしょう」
ほどなくして、郷を取り囲む馬の嘶きと蹄の音が、上壇の惣領館まで聞こえてきた。
「ようやく来たようだの」
満足げに胤栄はうなずいた。
具足の触れ合う音が、坂道を登ってくる。主殿の開け放たれた遣戸に、貫のままの鎧武者たちが姿を現した。先頭に立っているのは、小柄な赤糸縅の甲冑姿だった。卵のような丸い頭で、たっぷりした帽子を首に巻いている。
「ああっ」
胤栄は間の抜けた声を出した。
それは赤沢宗益ではなかった。古市惣領、播磨公澄胤その人だった。
「久しいお帰りですな、兄上」
低い声音には、およそ心というものがこもっていなかった。黒ぐろと据わった目つきで、口元も硬く強張ったままだった。
背後には、丈高い異相の老人も控えている。侍烏帽子に青漆塗の具足姿だった。孫娘の方をちらと見たが、やはり面差しを緩めることはなかった。
「き、貴様っ」
翻って、胤栄の方は目に見えてうろたえていた。無理もあるまい、と新兵衛は静かな心持ちで見守っていた。
「赤沢、そなた、このわしをたばかったか。沢蔵軒の軍勢など、来やせんのだな。代わりにこの尾籠者を、木津から呼びつけたというのだな」
「新兵衛ではありません。あたしが言い出したことです」
傍らの娘が、かばうように身を乗り出しながら口を挟んだ。
「藍紗、そなた、本気か。わしが施してやった恩を忘れたおったのか」
「忘れたわけではありません」
藍紗はいかにも苦しげに目を伏せ、かぶりを振っていた。
「だけど、西方様はこう仰いました。誰かに流されるのではなく、おのれの人生はおのれの決断によって切り拓け、と」
そう言われてしまえば、胤栄も皺の中へ口をうずめるしかなかった。
「兄上」
澄胤は音を立てて板敷きを踏みしめ、一人で上段の方へ歩き始めた。
「貴様、藤寿丸、そこから寄るな。こっちへ来るなあっ」
さかんに身悶えするが、逃げることさえ叶わない。脇息も倒れ、手足のない小さな体が、畳の上で見苦しく転がるばかりだった。
澄胤は構うことなく、どんどん進んでいく。框を踏み越え、真上から置き畳を見下ろした。眠たげな瞼に覆われた瞳からは、やはり心の動きは少しも窺えない。
胤栄は身をくねらせ、息遣いも荒く頭上の弟を見つめ返した。
「ならば、わしを殺すか。一度ならず二度までも、筒井と通じたこのわしを」
ふいに澄胤は膝を折り、足元の兄とまっすぐに目を合わせた。
そうして瞼を閉じると、唇を噛み、腕を伸ばして四肢のない体を力強く抱きすくめた。
「もうよいのです、春藤兄。……昔のことはもう。私たちはまだ生きている。どうか、未来のために生き続けましょう。今はもういない父上と、経覚様のためにも」
~(8)へ続く