【歴史小説】天昇る火柱(8)「旅立」
この小説について
この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。
彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。
そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。
その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全てを捧げる驍将、畠山尚慶。
弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
本編(8)
「確かに古市は、大和の新参者、成り上がり者、言うなれば鼻つまみ者じゃ」
郷の南にそびえる城山の物見台に立ちながら、澄胤は着流しの腕を組んでいた。
目の先には、三笠山、葛尾山のなだらかな尾根が連なっている。
春日の森の向こうに、興福寺の五重塔、東大寺大仏殿の黄金の鴟尾が、孟秋の陽射しを受けて輝いている。
肩を並べた新兵衛は、黙ってうなずいた。相手の頭頂を見下ろせるほど背丈は違う。
「そこから目をそらし、束の間の愉しみに生きることもできよう。財貨文物に溺れ、他を見下すこともできよう。しかし、泰平を決め込むにはいささか敵が多過ぎる。我らが郷の繁栄を守り続けるためには、大和の国内にこだわらず力をつけることが、どうしても肝要じゃ」
「よくわかっております」
傾きかけた西日に目を細めつつ、はっきりと答えた。
「むろん、これは孤独な戦いじゃ。義父上にしたところで、近ごろはもっぱら当方を遠ざけようとしておるのでな」
澄胤の妻は、飛鳥の国民越智氏から嫁いでいた。国中盆地北半の筒井、南半の越智。両雄の間に挟まれ、古市は同じ大乗院方である越智氏の尖兵という趣もあった。
が、最近は岳父との間柄も、うまくはいっていないと聞く。大和国にあっては、興福寺の僧である衆徒の方が、どうしても格上らしい。その辺りの意地の張り合いが、血族となっても互いの融和を阻んでいる。
「我らの敵も味方も、国の外へ求める他はない」
「南山城の統治には、手間取っておられるのですか」
「在地の者どもが、揃って反抗しよるでのう。何しろかつて山城の惣国一揆を攻め滅ぼしたのが、このわしじゃからな」
大和国で外れ者となり、出ていった先の南山城でも、やはり外れ者となる。だが一旦力に生きると決めたからには、それをさらに大きな力で上書きしてゆく他はない。
「時に、嫁御と新右衛門の仲はどうじゃ」
若鷺丸は思わず相手の顔を見返した。嫁御とは、藍紗のことを指しているのだ。
「互いにまだ、思うところはあるようですが、少しずつ話し始めています。また楠葉の屋敷で、暮らすことになるかと」
「それはよかった。あれにとっても、もはやただ一人の肉親じゃからの。わしと兄と同じよ」
ハハ、と乾いた笑い声を立てた。
「西方様は、どうなさるので」
若鷺丸がポツリ尋ねると、澄胤は隆々たる肩の肉を持ち上げた。
「旧の通り、館の西の離れで隠棲してもらうしかあるまい」
「いつか筒井党が、あの方を助け出しに来るかもしれません」
「今となっては、攫っていったところで何の得にもなるまい」
「我らにとっては、多少とも痛手になるのではありませんか」
澄胤は、答えないまま口をへの字に結び、また南都の方角を眺め直した。
実りの予感を孕んだ緑の稲原を、国中の甘い微風が、さざめきながら吹き渡っていく。
「ところで、そなたに一つ、正式に頼みたいことがある」
「はっ」
「今度は本当に、宗益殿の元へ赴いてもらいたい。わしからの直状を託す。これにてそなたの訓育は終わりじゃ。もはや充分に、赤沢党の武将として働くことができよう」
相手の眠たげな眼差しが、こちらをまともに見つめ返してきた。
「嫁取りして早々では、具合が悪いか」
「いえ、滅相もない」
ハハ、という笑い声が、虚ろに澄んだ青空へ溶け込んでゆく。
骨の軋むような音がして、若鷺丸は思わず目を見張った。澄胤の握りこぶしの中で、二つの賽子がひしめき、こすれ合っているのだった。
朝露の匂いがしていた。生まれたての陽射しが横顔を撫ぜている。
「それじゃあ、行ってくる」
楠葉の屋敷の門前で、新兵衛は鞍壺にまたがって振り返った。
浅黒い肌をした老人と孫娘が、こちらを見上げていた。
笑顔ではなかった。晴れがましい、というわけでもない。一抹の寂しさ、というのが正しいのかもしれなかった。
「侍烏帽子も直垂も、思いのほかよく似合っておる」
くぐもった声で、元次は世辞めいたことを言った。こんな時になって、らしくもないことだ。
「世話になりました。が、ろくに何も教えてはくれなかったな。最初は自分こそが、師匠みたいに言っていたくせに」
「字面や型ならば、他の者でも事足りる。わしがつけてやった稽古は、ひりつくような実戦よ」
うそぶく、とはこういうことを言うのだと、新兵衛は思わず苦笑した。
「新兵衛」
縮れ髪を胸元に垂らした藍紗が、大きな瞳を上目にしてこちらを見つめ返していた。
しばらく、何も答えられなかった。喉がつかえるような心地がして、何度も唾を飲み込んだ。
「俺は必ず、出世してくる。兄のもとで立派な大将になって、いつか唐船に乗れる身分になってくる。そうしたら、ずっと二人で一緒だ」
静かに目を伏せてから、藍紗はもう一度、意を決したように顔を上げた。
「あんまり待たせたら、誰もあたしをほっとかないよ。……でもどうか、死なないでね。生きてさえいれば、きっとまた会えるから」
「ああ。死ぬものか」
新兵衛は強いて笑い、大げさなくらい激しくうなずいた。
「大和を訪れる時は、必ずここへ帰ってくる」
~(9)へ続く