主として『啓蒙の弁証法』のこと
二月七日
十時半目覚め、十時五五分起床。つまり松井秀喜。
昨日は休館日につき昼間はほとんど書きものをして過ごす。夜間はひさしぶりに散歩をじゅうぶんにした。ふだん読むこと書くことを長くしているから気づかぬうちに眼精疲労が蓄積している。
ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』は一旦読み終える。なんど噛みしめても味の出そうなスルメ本。ただし味は苦い。救いの曙光が見えない。「暗い本」がお好きならどうぞ。「啓蒙って実はヤバいんじゃないの」という思索的溜め息が霖雨のように陰陰滅滅と続く。それもそのはずで、本書は一九三九年から一九四四年にかけて執筆されている。ドイツのナチス政権がとてもつもない数のユダヤ人を強制収容所に送り込んで虐殺していた「野蛮」の時代だ。ヨーロッパ文明の没落は誰の目にも明らかだった。一九三九年といえばドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦の火蓋が切られた年で、一九四四年といえばアメリカ・カナダ・イギリスの連合軍がノルマンディー上陸作戦を決め戦局に一大転機をもたらした年であることも参考のため書き記しておこう。
二人とも戦争が起こる前にはアメリカに亡命している。本書に関してはまた取り上げたいけど、とりあえず首肯するところの多かった四章「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」のなかから、線を引いた箇所をいくつか引用したい。
やや的外れかもしれないが、これらの文を引きながら、ある食品小売店で賃金労働(アルバイト)していた友人のことを思い出した。私と酒を飲みながら、つまり「プライベートの時間」に、彼はつい「今日もお客様が」と口に出したのである。「雇用されるということはこういうことか」と思わずにはいられなかった。職場にいない時でも職場を引きずってしまう。上司でも同僚でもない私との会話の間にさえ「お客様」という丁寧語を彼に使わせてしまうこうした「超自我」は、誰もが「お客様」か「従業員」かとしてしか扱われないこの「産業時代」に特有のものなのか。その彼は「お客様」によって「生かされている」と本気で思いこんでいるがゆえに、「客」などとぞんざいに呼ぶことには疚しさを感じざるを得ないのか。そのくせ自分を雇用している「企業」については、残業が多いだとか賃金が安いだとか、けっこう悪く言ったりする。この「ねじれ」は何なのだろう。
たしかヴァルター・ベンヤミンも映画についてこんな論じ方をしていた。彼も、のちに「フランクフルト学派」と総称される一群の思想家のなかの一人だから、その批判傾向が似ているのは当然なのだけども。
現実の過酷さや耐えがたさを教育する文化装置としての映画、なんてことは、現代の素朴な映画消費者にとっては思いも寄らない発想だろう。本書が執筆されていた時代、映画というメディアはまだそれなりに新奇なものだったはずだ。ラジオほどではないが、プロパガンダの媒体として権力サイドもそれを重宝していた。あの暗い空間のなか大画面映像を前にして観客はほとんど受け身だ。視覚器官も聴覚器官も「非日常的」な情報刺激をつぎつぎ送られる。「感動」している隙に何かしらのイデオロギーを注入することくらい容易い。敵国への恐怖を煽ったり愛国心を奮起させるのにこれほど有効なスペクタクル装置はないのだ。
いまの我々は、踏みつけられるドナルド・ダックどころか、格闘や爆発や銃撃戦などのアクションシーンにもすっかり慣れっこになっている。エイリアンの襲来や世界の大惨事(カタストロフィ)もこれまで何度経験させられてきたことか。だから現代の「現実における不幸な人々」はさらにひどい不条理にも耐えられる。そんな理不尽耐性強めの人々にとって、「ブラック企業」や「奨学金地獄」や「老老介護」など不条理のうちに入らない。そもそもそれが不条理であるとさえ気づていないのかもしれない。また無能な権力者がなにをしでかそうと、「またか」と呆れながら傍観できる鈍感さも身につけている。そうでなければ年中怒り狂っていなければならず終いには憤死してしまうからだ。現代人は苦行に勤しむ砂漠の聖者の如く、諦めること学んでいる。
欲望の阻止により愚鈍となり癌をつくり出してしまう人間が増えている気がしてならない。もちろん私もまた巨大な癌をうちに抱えている。その癌が隣人嫌悪や強迫神経症というかたちで発現しているのかも知れない。どうにかしなければ。でもどうにもならない。
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