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生涯に読める本の数は決まっている、若さとはタンクトップ一枚で外にいても許されるということなのだ、

八月十日

蟻をつぶして食べると力がつくという言い伝えが子どものあいだにあって、蟻を殺して食べた、と一等水兵が幼いころの思い出を話した。それにつられて、十八歳の軍属(志願して海軍に入った)が、みなさん私より年上ですが、人を殺したことはないでしょう、という。自分より年上の軍属の間にいて、自分のほうがえらいことを誇るように見えた。

鶴見俊輔『思い出袋』6 戦中の日々(岩波書店)

午後十二時三二分。玄米緑茶、調整豆乳。スポティファイで「大脱走のマーチ」。やはり正午を過ぎてしまった。ただ昨日よりは早く離床できたのでまあよしとする。やたら寝つきが悪かった。エアコンを付けてしまった。寝る直前までユーチューブで「開高健の大いなる旅路 スコットランド紀行」を見ていたのがいけなかったのか。私は「何もしてない時間」が苦手だ。特に本を読んでいない時間は大なり小なり「失われた時間」として感じられてしまう。死ぬまでに読みたい本や読まねばならぬ本がこれだけあるのに俺は何をやってるんだ、と自責的気分が高まってしまう。こういう「時間貧乏性」は美しくない。他人の内にこういう性質を認めると私は軽い軽蔑心を抱くに違いない。しかしいつも思うのだけど起床後は文章を書くのにもっとも適さない時間だよ。脳の八割はまだ鼻からちょうちんを出して眠っている。いくら急いでカフェインを摂っても効き目が出るのはせいぜい一時間後。あと日記なんてのはふつう一日の終わりに書くものじゃないのか。なんでこんな正午過ぎに昨日あったことなんかを書いてるんだ俺は。昨日のことなんかもうどうでもいいんだよ。「俺は今だけを生きたい」。その昨日の午後、ジジイのミニベロで文圃閣ガレージ店に行ってきた。前よりは暑くない日だった。最初タンクトップ一枚で外出しようと思ったけどやめた。三五を過ぎた男のタンクトップ一枚には色気はもう発生しえない。タンクトップ一枚で外を出歩いていいのは二五歳くらいまでだ。それ以上になるとどうしても「不潔感」が出る。「無理してる感」も出る。なんでお前が肌の露出面積を最大化させようとしてるんだよ、と言いたくなるある種の「滑稽感」も出る。スタイルや顔の造作とは関係なしに。俺が二十代に戻りたいのはタンクトップ一枚で堂々と外出したいからに他ならない。さいきんはタンクトップ姿の学生なんかを見かけると羨ましくて眩暈がする。行くと店内は暗かった。「節電のため暗くしております。暗いと感じたらスイッチを入れてください」という張り紙が前にあったけどどこにスイッチがあるのか分からなかったし探すのも面倒臭かったので暗いのをそのままにして本を探していたが、とちゅう常連らしい初老の客がきてスイッチを入れてくれたので、ちょっと助かった。「それがどうした度」がいつもより高い文章を書いているな俺は。はんぶん眠っているからしょうがないんだ。脳のウォーミングアップあるいは前戯みたいなものだからこの日記は。こんかいは滞在中に二三人の客を見た。二人なのか三人なのかはっきりしろと自分でも思うけど書店にいるあいだはいつも本を探すのに夢中で人間を見ている余裕なんか無いんだ。でも他人の買おうとしている本はやはり気になる。若い男なら尚更。もっとも若い男の大半はもう本なんか読まない。読書がだんだん「変人の趣味」になりつつある。嫌な時代だ。こんな嫌な時代の只中にいて気が狂わないほうがどうかしている。「読まない人間」は「飲まない人間」以上に俺にとってどうでもいい存在だ。買った本は、『安部公房全作品13』、『新編 ユダヤ笑話集』、菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』、高木侃『三くだり半』、高橋昌明『酒呑童子の誕生』、大岡信『続折々のうた』『新折々のうた6』『第三折々のうた』の八冊。締めて1100円。きょうはこのあとちゃんと図書館に行くよ。愚民がひしめいているだろうけど。エマニュエル・トッドの続きを読みたいし、ベーシックインカム本の続きも読みたい。俺に読まれたがっている本は出来ればすべて読みたいが、俺の体は一つであり、時間も限られている。だからどうしても「ソフィーの選択」的決断は避けられない。生きるとは何かを生かし何かを見捨てることなんだ。この残酷さを理解していない人間は生きるに値しない。昼飯。ネギ炒めるか。そういえばまだ雲古してないな。つねにナーバスであれミューズたち。

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