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脱ぎたがる男たち、脱がずにはいられない男たち、脱いでもキモい男たち、

七月十日

お前は、接吻さえしたいと思うものに邪慳なことを、憎みおそれているものに優しいことを言った。

ルナアル『ぶどう畑のぶどう作り』(岸田国士・訳 岩波書店)

午前十一時二八分。粉末緑茶、洋菓子。吉幾三の「雪国」が頭を離れない。外は雨降り。今宵もろくに歩けそうもない。気がくさくさする。草草する。草生える。www。酒量が増えた。酒量が増えても俺の生活には何の差支えもない。「昨夜」はアサヒスーパードライ350ml缶を一本、フォートウィリアムを300mlほど飲んだ。二日酔いはない。これがトップバリュブランドの偽ウイスキーだといまごろ空嘔の連続で生きている心地がしないだろう。やはり飲むなら「まともな酒」を飲む方がいい。付き合うなら「まともな人」と付き合う方がいい。あとこれまでは酒は原則として深夜零時までとしていたが、今日からは深夜二時とする。よほどひどい酒でない限りたしょう飲み過ぎても頭がずきずきして眠れないなんてことにはならないからだ。何度でもいうが「酒は体にいい」。なにしろ毎日大量に飲んでいると早死に出来るのだから。<生>というこの不健康のカタマリのような何かに終止符を打ってくれるのだから。オッケーグーグル、地球の金の埋蔵量教えて。めめんと森下翔太。そういえばさいきん見ないね彼。二軍にいるんだな。オイラ彼のこと大好きだから早く戻ってきてほしいよ。今年の阪神の優勝は絶対に絶対ありえない。もし優勝したら国会議事堂の前でオナニーしたあとにトリスクラシックを鼻で一気飲みするから。

木下直之『股間若衆 男の裸は芸術か』(新潮社)を読む。
ずっといぜんから気になっていた本。この著者のことは『美術という見世物』で知っている。タイトルは古今和歌集の「もじり」だそうで。そう言われるまで気が付かなかった俺はかなり鈍い。著者のいう股間若衆とは、公園や駅前などに堂々と立っているあの男性裸体像のこと。金沢城周辺にもいくつかあって本書でも紹介されている。僕は女の裸にはぜんぜん興味はないが男の裸はけっこう好きだ。ただし若い「イケメン」の裸ね。高校生のころ「ウォーターボーイズ2」を夢中になって見ていたことをいま思い出した。市原隼人の裸も良かったけど小池徹平の裸はもっと良かった。抱かれたくて仕様がなかった。僕には男を二種類に分ける癖がある。「抱かれたいか抱かれたくないか」。昔は「チンコを舐めたいか舐めたくないか」だったんだけどこっちのほうがシンプルでいいでしょ。抱かれたい男になら殴られてもいい。ただ捨てないでほしい。捨てるくらいなら殺してほしい。男性裸体像の股間表現にも色々あるみたい。パンツ、ふんどし、木の葉、「曖昧模っ糊り」。男性裸体像の傑作といえばミケランジェロのダヴィデ像だけど、僕はドナテッロのダヴィデ像(ブロンズ)のほうが危険な色気があって好き。まだ少年感があるのに「抱かれたい!」と思わせるから不思議。芸術と裸体とのこの親和性の高さはなんなんだろうね。古代ギリシアの彫刻なんて裸ばっかりじゃない。男はどうしてこう脱ぎたがるのか。「ありのままの俺を見てくれ」ってことなのか。たぶん「男としての自分」を感じたいのだろう。こんにちにおいて「裸祭り」なんてのはそういうことを感じたい男のためだけにある。脱ぐこと自体がひとつの変身なのかも知れない、といった寺山修司の見解は実に鋭い。それにしても三島由紀夫のヌード写真なんていったいどこに需要があったんだろうね。ジョン・レノンもオノ・ヨーコと一緒にヌード写真を残している。ホリエモンも。羽生結弦とか内村航平みたいな脱いで欲しい男たちが脱がなくて脱がなくてもいい男たちが脱ぎまくる。世の中なんてそんなもの。シックスパックを作るのにいま中途半端な努力を続けているオイラも人前で脱ぐのは大好き。もちろん「ヌード写真集」も出したい。いやだからどこに需要があるんだよ。もう昼飯食うか。麻婆丼ね。『百年の孤独』はもう読了しそう。アウレリャーノ地獄はもう終わる。さんざめく月面世界。陰毛沢東。お前のなかの怪物を育てろ。闇夜の猫糞。

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