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三島由紀夫は筋肉ゴリラではない

五月十一日

彼は簡易寝台に横になって一日を過ごしていた。彼は疲れをしらない読書家だった。手近なものは何でも読んだ。新聞、イタリア語の本、フランス語の本、ドイツ語の本、ポーランド語の本。二、三日おきに、検査がある時、私に言った。「これはもう読んだ。別の本を貸してくれないか? でもロシア語はだめだ。ロシア語がよく分からないのは知っているだろう」彼は決して多国語を理解できるわけではなかった。むしろ実際には読み書きもあやしかった。しかしそれでもあらゆる本を「読んだ」。初めから最後の行まで。彼は一つ一つの文字を満足げに見分け、小声で発音し、苦労しながら言葉を組み立てたが、その意味には関心がなかった。それだけで十分だった。

プリーモ・レーヴィ『休戦』(竹山博英・訳 岩波書店)

図書館から帰ってきていまから砺波の温泉に行く。湯上りに書くのは億劫だろうからいま一気呵成に書いてしまおう。起きしなに眠い目をこすりながら書くのはもうやめることにした。だって辛いもん。辛いことは体に悪い。そもそも日記なんてものは一日の終わりに数分以内で書くものでしょう。一時間以上かけるなんて馬鹿げている。

清武英利『プライベートバンカー(カネ守りと新富裕層)』(講談社)を読む。金持ちどもにタックスヘイブン(租税回避地)などを利用した「合法的節税術」などを教える《金の傭兵》プライベートバンカーの姿を活写したノンフィクション。外国の金持ちどもを「無税もしくは低税率」を餌におびき寄せるシンガポールが主な舞台。業務実態のないペーパーカンパニー(シェルカンパニー)というのはあんがい簡単に作れるものらしい。<租税回避地>といえばすぐにケイマン諸島やヴァージン諸島を連想するが、それももうかなり古い情報なのかも知れない。
増田晶文『果てなき欲望』(草思社)を読む。なにしろボディビルディングだ。努力や継続や「男らしさ」が大嫌いな僕にはおよそ縁のない世界。それだけにかえって興味が尽きない。一九五〇年代、昭和三十年代にはいって経済復興がすすむと、日本人はにわかに「健康志向」に目覚めた。力道山の活躍によって過熱化したプロレスブームとも相俟って、ボディビルディングが注目を集めるようになった。三島由紀夫がおのれの貧弱な肉体を鍛えだしたのもそのころ。三島の「太宰嫌い」は彼の肉体的劣等感と切り離せない。肉体を鍛えようが剣道を始めようが自衛隊に入ろうが、彼の小説に血が通うことはついに無かった。岸田秀が看破するとおり、三島は最初から死んでいた。彼の作品の「空虚な美しさ」「非肉体性」の秘密はそこにある。その「過剰性」ゆえに常人の嘲笑を受けがちなボディビルディングだが、本書が伝えるボディビルダーたちの緻密で強靭なストイシズムあるいはその特殊的な<美意識>を知り、私の見方はやや変わった。ナルシシズムのこういう表現も悪くないとおもった。いわゆる筋肉芸人たちの活躍のせいなのか、こんにちにあっては、いかなる種類の「筋肉自慢」も「お笑い」と紙一重になっている。だいたい、パンツ一枚で自分の肉体を人前にさらすなんて、どう考えても「常人」が耐えられることではない。それがどれほど権威ある大会だろうが、「滑稽味」が滲んでくることは避けられない。「真剣味」と「滑稽味」のこの奇妙な均衡こそ、ボディビルディングの魅力を解き明かす鍵なのかもしれない。いかに凄絶なトレーニングを重ねて超バキバキになってみても、尊敬を受けるどころか、「気持ち悪い」という好奇の眼差しにさらされかねないのだ。こういう理不尽にあえて身をさらすという勇気に、私は満腔の敬意を表したい。そもそも「人」とははじめから狂っている生き物なのだ。筋肉美の果てなき追求もまた、髪を染めたりタトゥーを入れたり女装したりといった「変身願望(自己否定)」の一種といえるだろう。アナボリック・ステロイド等の「禁止薬物」に焦点を当てた第三章においても、極限を追求する人間の狂気を垣間見た気がして、愉快だった。オリンピックなどのスポーツ大会もドーピングなどにはやたらうるさいが、私個人としては、禁止薬物の規定などはいっさい無くして、超人あるいは化け物ショーのようなものにしてしまえばいいと思う。「限界への挑戦」というのはもともと「反自然的」でグロテスクなものなのだということを、人々はそこではじめて知るだろう。人が人であることにウンザリした時、人は「怪物」を志向する。筋肉をやたらに発達させた「異形の者」の存在を、「本の」である僕は笑うべきではない。起きている時間のたいはんを読むことや書くことに費やしている僕だって、見様によっては「怪物」だろう。ただ、肉体的過剰は外部からでも分かりやすく、心的・知的過剰は外部からだと分かりにくいという違いがあるだけだ。僕もまた人間であることにずいぶん飽きている。「哲学的」に考えるなら私は、「人」である以前に「いまここ」であるにすぎない。「超越論的統覚」がそのまま「社会内の一市民」になるわけではない。「社会内の一市民」という自覚に「安住」するには、「自己疎外」の大きな一歩が必要だ。なんならそれを「愚鈍化」と言い換えてもいい。それは「驚愕すべきことに驚愕しないこと」によって達成されるのである。その「驚愕すべきこと」とは何か。分かっている人はもう分かっているし、分からない人はいくら説明されても分からないだろう。

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