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受けた恩は忘れてしまえ、恨みは一生は忘れるな

七月二三日

ひと目惚れは、日本では西欧におけるほどありふれたことではない。ひとつには、東洋社会の特殊な構造によるものであり、またひとつには、両親の決めた早い結婚によって、いろいろな不幸な防がれているからである。一方これに対して、情死はめずらしいことではない。ただ、ほとんどいつも二人であるという特殊性がある。しかもそのうえ、たいてい。不義の関係の結果である。それでも。正直な、勇敢な例外もある。通例、それらは田舎に多い。こうした悲劇におわる恋は、もっとも無邪気な、自然な幼なじみの関係から突然発生したもので、因をたずねれば、子どもの頃にかえるものがある。しかし、そんな場合でも、西欧の心中と日本の情死との間に、たいへん妙な相違がある。東洋の自殺は、苦痛からくる、一時の盲目的な逆上の結果ではない。それは冷静で、筋を通しているばかりではない。神聖でさえある。死を証とする一種の結婚を意味するのである。

『小泉八雲集』「赤い婚礼」(上田和夫・訳 新潮社)

十一時起床。紅茶。ビスケット二つ。
きのうも三時間以上歩いた。五時間だって可能だろう。私の場合、ロングウォーキングでは、脚よりも腕のほうが疲れてくる(それは「ムズムズ症候群」の不快感に似ている)。ただぶら下がっているというのも楽ではないらしい。よく両肘を九十度に曲げて前後に振りながら歩いている人(女性が多い)がいて、見かけるたび「だっさ」と笑っていたが、あれはあれなりに合理的な身体運用なのかも。ともあれ長く歩くコツは腕を閑にさせないことです。
原稿三枚書く。明日は晴れてたらひさしぶりに古着屋か古書店でものぞきたい。大西巨人『神聖喜劇』の続きをいい加減読みたい。どっかに置いてないか。

小野一光『北九州監禁連続殺人事件』(文藝春秋)を読む。
二〇〇二年に発覚したこの凄惨事件についてはすでに豊田正義『消された一家』(新潮社)があり、私はこれを十年ほど前に読んで度胆を抜かれた。そして考え込んでしまった。「こんな奴(松永太)がいるなら死刑だって必要かもな」とか思ったもの(マジ単純)。
小野による本書は裁判記録からの引用がやたらと多く、ときに冗長に思えたが、事件が途方もなく複雑だけにそれもやむを得なかったのだろうと肯定的捉えておく。この事件では七人が殺されている。そのなかには十歳と五歳の子供もいる。なのに死体がひとつもない。ミキサーなどで細かく解体されて捨てられたから。この事件捜査の難しさは何よりもそこにあった。
主犯松永は「金づる」として利用価値のなくなった人間は殺す。しかし自らは手を汚さない。「マインドコントロール」で殺させる。殺人という犯罪に加担させることで、「もう逃げ場はないぞ」と脅迫ネタを作り出す。そして、「お前らが勝手にやったんだろ、俺知らんよ、捕まりたくなかったら俺のいう通りにしろ」と自分の思い通りに事を進める。
松永はなにかと相手に「負い目」を感じさせることで自分に服従させたがる。古今の残虐事件の記録を多く読んできた私がこの事件に非常な耐えがたさを感じるのはたぶん、プチ松永みたいなやつをちょくせつ知っているからだ。恩着せがましい人間への私の拒否感情は年々増すばかり。
この事件の「後日談」としては、張江泰之『人殺しの息子と呼ばれて』がある。松永太と緒方純子の長男がドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション」に出演した回を書籍化したもの。心痛無しでは読めない。事件発覚時、彼は九歳だった。ちなみに彼はげんざいユーチューブをやっていて、心情を吐露したり、動物園で癒されたりしている。

寺澤有『本当にワルイのは警察~国家権力の知られざる裏の顔』(宝島社)を読む。
著者は日本では珍しい「警察と闘う系ジャーナリスト」。警察の組織的な裏金作り、ヤラセ拳銃押収、記者クラブというものの大弊害など、なかなか鋭く突いている。ただ公安警察のところでウィキペディアを引用したのはいただけない。いちおうプロフェッショナルなのだから。
「サツ回り」という業界用語があるように、記者は警察の情報に依存してきた。「夜討ち朝駆け」といい「特オチ」といい、この業界には頭の悪そうな言葉(慣習)が多い。テレビや新聞がねんねん批評性を失っているのも無理はない。というかそんなもの既に求めていない。マスコミによる警察批判の難しさについては、高田昌幸『真実―新聞が警察に跪いた日』に詳しい。

さっきからジジイがバタバタうるさくてイラついている。イラつくと僕はキーボード強めに叩いてしまう。もうやがてメシを食って、図書館に行きます。

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