優雅で瀟洒で蠱惑的、「お前が消えて喜ぶ者にお前のオールを任せるな」とそのムシキング女は俺に行った、
十月十三日
午後十二時十九分。洗濯機を回して、紅茶、アルフォート。わりと気分はいい。「愛は勝つ」が聞きたい。ゲンキーで買ったBuen Vivirの赤を一本空けたけど二日酔いはなし。肝臓エリート。とりあえず今夜も飲む。白と赤、どっちのほうが俺を愛しているか。そういえば紅白歌合戦ってまだやってたんだね。きのう新聞で知った。きょうび老若男女が口ずさめる「流行歌」なんてもう存在しない。俺のアンテナはたぶん壊れてないはずなので、俺が知らないような曲は他の人間も知らないと判断してもいいだろう。特定の世代にそこそこ聞かれているらしい曲を聞いてもぜんぜん琴線に触れない。誰もがくだらないことに夢中になり過ぎているように見える。たまには思索とかしろ。いっさいの「エンタメ」からいったん距離を置くんだ。この世界の虚しさが分からない人間は論理的に考えることが出来ない人間だ。これいじょう馬鹿になるな。まともに話せる人間が少なくなるのは嫌だ。馬鹿といえば、ゲンキーの酒コーナー付近にずっとベタベタしてるブスとブサイクのバカップルがいた。人間公害。無粋の見本。部屋に鏡あんのか。だいたい大の大人が外で手をつないで歩くな。そんなんでいつ「二人だけの恋愛モード」に切り替えるんだよ。「恋愛の快楽」ってのはほとんどその切り替えの瞬間にあるわけだろ。恋愛偏差値の低い奴らに限って「公私の区別」を知らないからな。てめえらぜんいん家畜運搬車にひかれて死ね。洗濯機がピーピー鳴ってるわ。ちょっと干してくる。ついでに雲古もしてくる。
シーラ・ジェフリーズ『美とミソジニー 美容行為の政治学』(GCジャパン翻訳グループ・訳 慶応義塾大学出版会)を読む。
ラディカル・フェミニズム(ラディフェミ)の教科書みたいな本。原書初版は2005年だから美容産業に関する細かい記述はたぶんそうとう古くなっている。「ハイヒールは現代の纏足みたいなもの」といった主張は当時はわりと過激に聞こえたのかもしれないが、「#KuToo」運動以降のわれわれにとってはもはや当然すぎる認識。「足フェチ」の男についていろいろ書かれていた。いったい私は「~フェチ」という言葉自体が嫌いだ。他人の「性癖」語りってなんであんなに気持ち悪いんだろう。本書は、「ジェンダーとの戯れ」なんていうポストモダン流の言説への批判で満ちている。「脱構築」を志向しているらしいどんなアクロバティックな言説もけっきょくは既存のジェンダー格差を強化させるだけだ、といった冷徹な認識で貫かれている。フェミニストの研究者のなかには、「女/男」などの「生物学的性差」をさえジェンダーとして捉える向きもあるけれど、俺はいくらその種の説明を聞いてもいまいちピンとこない。「性別」に関する話はどれもやたら難しい。性分化疾患(DSDs)のことも「理解」するのに時間がかかった。誰もがたいていは生まれた瞬間に特定の器官等の有無や形によって「男」か「女」かに分類される。一度どちらかに分類されたら基本的にはそのままだ。知らない他人とちょくせつ接する際、相手が「男」か「女」かという判断が下されないことはほとんどありえない。出身国や学歴は話さないと分からないかもしれないが、「性別」はたいてい「見た瞬間」に分かる。だからこそ「一見男なのか女なのか分からない他者」に人はやや攪乱させられるのだ。場合によってはその「曖昧さ」がそのまま魅力になったりもする。私見によれば「美少年」の魅力は二重の外見的曖昧さによって支えられている。ひとつは「少年/大人」という二項対立における曖昧さで、もうひとつは「男/女」という二項対立における曖昧さ。私は女装したがる女は嫌いだけど、彼女たちだって好きでそうしているわけじゃないことは理解している。男たちからの「いつも俺たちを発情させる綺麗でセクシーな女でいろ」圧力によってそうせざるを得ないのだ。男はとかく女を自分とは対極的な「弱き他者」として見たがるので、女は「男社会」に受け入れられるためにも、そういう「弱き他者」を演じ続けなければならない。いまはっきり言えることは、最初から自分を「異性愛者」だと思っている男はそうとうに頭が悪い、ということだ。女たちよ、そんな頭の悪い生き物を発情させてどうすんの? 汚いバカップルをもっと増やそうってわけ? まじかんべんしてよね。もう昼飯にするわ。納豆ね。納豆食べよう鎌倉幕府。あ、でも、混ぜるの面倒くさいから梅干しとサンマの缶詰ね。俺に幻滅した天使どもはみんな巨大パックンフラワーに食われやがれ。喫煙室の孤独。ひかりごけパールライス。おさるさんベイビー。