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バカバカしいのはまだ生きている俺の方だ、

八月二五日

女性たちを周縁化したり、家の中に閉じ込めたりすれば、彼女たちの教育にブレーキをかけ、ひいてはその息子たちの教育にブレーキをかけ、結局、父系制の親族網の中に閉じ籠もるよう息子たちを仕向けることになる。こうして、男たちもまた、本物の個人であることをやめてしまう。

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 下 民主主義の野蛮な起源』第18章 共同体家族型社会――ロシアと中国(堀茂樹・訳 文藝春秋)

午後十二時二一分。うずらの玉子、わさび豆、紅茶。雨が降っている。ノイズキャンセリングイヤホンを手放せなくなるかもしれない。「市場の原理」が働いて今では安くてそれなりの質のものも手に入れやすくなった。壊れても慌てなくていい。集合住宅で耳栓なしで寝られる人間がいるなんてにわかには信じられない。よほど鈍感なんだろう。俺は自分の出来ないことが出来る人間がいるとすぐに鈍感のレッテルを貼りたがる。どう考えても悪い癖だけど多かれ少なかれみんなそんなもんじゃないの? この日記は反省部屋じゃないから開き直っちゃうよ。隣人の咳払い学生に苦しめられるようになってから私は耳栓を付けずには眠れなくなった。あのチック野郎のチー牛顔はいま思い出しても殺意が湧く。心の藁人形に心の五寸釘を何本打ち込んだことだろう。隣人とは「すれ違うときに挨拶するくらいの関係」は構築しておいた方がいい、というのはおおむね正しい。戦争を回避するためにはまずそれなりの「友好的関係」をふだんから確認しておく必要がある。でもそれはこっちの意志だけではどうにもならないことなのね。向こうがコミュ障の三流隠者体質の人間だったらどうにもならないことだ。実は低家賃の集合住宅ほどそんな人が多い。なんというか過度に人間恐怖的というか、「他人とはきょくりょく関わりたくないオーラ」が半端ないんだ。「対人恐怖症の中学生がそのまま大人になったような人」。「生活に困窮しても誰にも支援を求められずそのまま餓死してしまうような人」。いっとくが他人と関わりたくないのは俺も同じだ。とくに知性にも教養にも乏しい凡人とはね。なんで俺がお前らみたいなウスノロに気を遣わないといけないんだよ、とさえ思う。でも集合住宅に住んでいる以上は関わらざるを得ないわけだ。そういう関わり合い自体が関わり合いを最小限に留めさせてくれるんだよ。そのくらいのことは理解してくれまじで。ガキじゃないんだから。就寝前と起床後はILLAY動画を見たくなる。セナ様の姿を見ると「もう少し生きよう」という気になる。日に日にたくましくなっているセナ様を見ていると「男のなかの男」という言葉が浮かんでくる。俺はいつかセナ様にお姫様だっこされたいのだ。だから走って体重を落とさないといけないのだ。ユーチューブではもうILLAY動画以外見なくていいかもしれない。デモクラシータイムスの世を憂える素振りのコメンテーターどもの面を見ているとときどき無性に腹が立ってくる。自民党総裁候補者どもの面を見ているともっと腹が立ってくる。けっきょくショーなんだよ全部。なんでもショーにしてしまうメディアの犯罪。「スペクタクル社会」という古い言葉をいま思い出した。選挙もヘイトスピーチも虐殺もショーになっている。なんであれ真剣に論じようとすればするほど滑稽になる。もう俺の負けだ。完敗だ。みんな違ってみんなクズ。もう飯にする。図書館ではグレーバーの続きを読む。ああ上野駅。オイラはリアルボンバーマン。

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