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美しい老年など存在しない、砂場の孤城、サルトルの斜視、ものぐさ姫、悉皆病苦、

二月二五日

内村 ぼくは全く対照的なんですね。ぼくはものを書く場合に、こういう考え方でこれを書いてやろうと、第一行で苦労する現象だけとらえれば、あなたとぼくと全く同じです。書けないという意味においては。ところが、第一行を書いた瞬間に、ぼくの場合には、今度は全然思ってもいなかったことを、意識下から引出して来ているわけですよ、いま書いた文字がね。そうすると、ぼくが自分で書いて、自分で驚いているわけです。そこで引出されてきたものをあわてて、今度は欄外に鉛筆で書いておくというわけです。

五木寛之・他『視想への旅立ち』「現代のニヒリズム」(河出書房新社)

午前十一時四〇分。紅茶、アーモンド。正午前に起床できたおのれを称えたい。おとついから石川さゆりの「能登半島」が頭を離れない。舞台が「故郷」というのもあってか、「いい歌」とは思うのだけど、「すべてすべて投げ出し駈けつける」の部分にはどうしても引っかかってしまう。どうして男の書く詞は女にこうなんでも捨てさせるのよ。無力にさせたがるのよ。「一途な女」という幻想が男たちはほんとう好きだね。江戸の「八百屋お七」にもうすでにそんな傾向が認められるわ。
「強迫さん」はやや暴れ気味。あれだけ厭世的言辞を弄しながらも長生きによって生き恥をさらしまくったシオランいわく「書くことは自殺の延長」。私は彼以上にその「真意」を理解している。過去の文章はすべて自殺未遂現場だ。だからそれを読み返すのは苦痛でしかない。「精神安定」は「明日死のう」と思い立った瞬間にしかありえない。
昨日午後うつのみや香林坊店に行ってきた。まだ古書市が催されていたので、M・バルガス=リョサ『緑の家』、『蠍を飼う女(椎名麟三自選戯曲集)』、野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』、山田風太郎『人間臨終図巻Ⅰ』、山口昌男『歴史・祝祭・神話』、島田雅彦『僕は模造人間』の六冊を買う。約一七〇〇円。椎名麟三なんてもう忘れられた作家だ。『人間臨終図巻』は枕頭の書にふさわしい。感傷を排し、死にゆく人の姿をきょくりょく即物的に再現しようとするその筆致は、医学一家に生まれた人間ならではのもの。徳間文庫から出ている本のなかではこんご最も長く読み継がれるものだろう。たやすい死などほとんど存在しないという残酷な事実をこの本は教えてくれる(「死ぬのは怖くない」と言いたがる人々ほど死を恐れている、ということに俺は感付いている)。

・・・・・・しかし、人間の死に方の中で、あるいは「絞首刑」が、いちばん安楽死かも知れない、と思われるふしもある。

「四十一歳で死んだ人々」大久保清

ところでまだⅡは手許にないんだ。いずれどこかで見つけられたらな。ところで山田風太郎の臨終はどんな有様だったのか。「他人の死」と「自分の死」は質的に違う。わりと健康でいたころは悟ったようなことを言っていた人が重い病を得て急変することはよくある。どんな「立派な人」も死期が迫れば多少はおかしくなるものだ。終末期患者をたくさん看取りながら「死の受容モデル」を唱えていた死生学の権威エリザベス・キューブラー・ロスの晩年(脳卒中で倒れる)の様子を伝えるドキュメンタリーを昔ちょっとだけ見た。彼女みたいな人間でさえずいぶん荒れていた。当然と言えば当然なんだけど。「従容と死を受容する」なんてのは現実にはまずありえないだろう。もしそう見えることがあったとしても、それは、もがき苦しむのに疲れただけだ。
地獄とはすなわち「現存在的であること」。「死んだら地獄に落ちるのではないか」なんて心配している人間はマヌケ過ぎる。もう既に地獄にあるということに気が付いていないのだから。ここが地獄だ、ここで泣け。人はよほど鈍感でない限り、「生の苦痛」も「死の不安」も耐えがたいものだ。街ゆく人々が何かから逃避しているように見えるのも、彼彼女らが不断に感じているこの「耐えがたさ」のせいである。あの「軽薄さ」は武装なのだ。「神経症的でグロテスクな軽薄さ」をあるていど身に付けなければこの「終わりなき日常」は生きられない。心臓と脳が痒い。2024年に聴いてる人いる? 救済の薄暮。生も不可解なり、死も不可解なり。ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ。君は神経の病なんだゆっくり休みたまえ。ラスコーリニコフの睾丸の垢でも煎じて飲みたまえ。神経の病のせいだ。なにもかもを破壊したく思うのは神経の病のせいだ。どいつもこいつも愚鈍な狂人にしか見えないのも神経の病のせいだ。ゆっくり休みたまえ。酒でも飲みながら、石川さゆりでも聴きながら、ゆっくり休みたまえ。きょうは暗い日曜日。ロベスピエールは三六歳で死んだ。難波大助は二五歳で死んだ。なのに彼等よりも凡庸で悪質なやつらはいつまでものうのうと生きるつもりでいる。ネロは偉大だった。すべての人間がネロ的であれば、なんてときどき思う。原始宇宙のあくび。現象学的還元。一秒後に「この世界」はとつぜん消えるかも知れない。どうして「世界の持続」を確信できるのか。「日常」など実はどこにも存在しない。「日常」というのは錯覚に過ぎない。「時間」は流れない。断絶が持続的ではありえないように。

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