コンクリ詰めの瘋癲猫、朝焼け日本海に沈めば、嵐山の爆竹、ミルフィーユ的造反劇もしくは虚仮威しのパラグライダー、
十一月二一日
午後十二時二五分起床。栄養調整菓子二本、緑茶。古書店通いの便宜上、本日から「休読日」を火~日のなかから任意に一日選べることとする。休読日を固定するとその日が悪天候だった場合、困る。いくら金沢でも一週間のうち一日くらいは好天日があるものだ。というわけできょう三時一〇分、文圃閣へ出発する。きのう金沢エムザのTSUTAYAへ行ってきた。ICOCAを使って、『ワインズバーグ、オハイオ』の新訳と、岩波文庫の『大衆の反逆』の二冊を買ってきた。さっそく前者をすこし読む。元教師ビドルボームの悲劇を描いた「手」はやはり強烈。でもぜんかい読んだときとかなり違う印象を受けた。
このくだりの悲しさ、痛ましさ。薄暗い生の底の、幽けき悲鳴。悔恨と怨嗟の蠢き。人間的グロテスク。いびつになった精神。一人部屋でタバコを吸い続ける老人の姿が脳裏に浮かぶ。きょう「強迫さん」がちょっと強めだわ。さっきから動悸がする。ヤニ臭と音が気になる。起きてからもう二回も壁クンクンしてるよ。俺もかなり「いびつな人間」になりつつあるな。いずれモンスターになるんじゃないか。あるいは聖人。できればどっちにもなりたくない。俺はつねに他者と自分の痛みに過敏な「考えすぎる葦」でありたい。
誰もがなにかしらの「偽物真理」を生きている、と言える。それに固執することによって、ますます「いびつ」になっていく。すべての人間は同じくらいに「いびつ」で痛ましい。街にでれば、「このひと病んでるな」と思わせないような人間を探す方が難しい。「生きるのがしんどくない」なんて言いたがる人間はウソをついているか、そうでなければただの鈍感症だ。地獄的世界を陽気に生きている人間の感性など俺は信用しない。「前向きな人間」は悪魔よりもタチが悪い。「ポジティブ思考」は一種の病気だ。上を向いて歩かなくてもいい。泣きながら死ぬのを待つの悪くない「生き方」だ。その「普遍的絶望」を共有できる二三人の友があればなんとか耐えられるよ。俺くらい「人間世界」について「正しく悲観」出来ている人間はそう多くはないだろう。惰性に身を任せる酔っぱらいばかりのなかで、俺だけはその「地獄性」を精確に見抜いているつもりだ。どの国のどんな身分で生まれようとも、やはりその生は「耐えがたい」ものであり、それゆえ例外なしに「存在しないほうがよかった」のである。「このようにある」という現存在を俺はいっさい肯定しない。すべての生は悪夢である。
さあ飯食うか。