メランコリー親和型人間の行く末、近未来の奴隷狩り、「体が資本」、自傷系少女の幽体離脱ごっこ、
二月九日
午前十時二二分。UCCコーヒー、納豆ごはん、割れせん。コーヒーはオリゴ糖と白い油を入れると少しは飲みやすくなる。納豆に付属カラシと付属タレをかけるたびいつも思うのだけどこれらを最初から練り込んでおくことは出来ないのかね。そうすると風味が劣化しやすくなるのか。そういうのを使わない人もいるからか。いやでもそういう人は付属物なしのを買えばいいじゃないか。食うものに金をかけるのはバカのすること、という確信が馬齢を重ねるに連れますます強くなってきた。二十代前半のころはこの種の言辞が「負け惜しみ」にしか聞こえなかったのに。だいたいあの店がうまいとかこの店がまずくなったとか言ったり書いたりする連中にはロクなのがいない。そうやって通ぶるのが「粋」に見られた時代もあったのだろうけど。俺は小林秀雄の書くものはかなり好きではないが、彼が「美食家」でありながらも、「食欲というのは最も低級な欲望である」という信念のもと食についてはほとんど評論的文章を残さなかったという点では、敬意を表している。このへんで中島みゆきの「タクシードライバー」を流す。ループ再生の仕方をさいきん覚えた。「だけどあたしはもう行くところがない 何をしても叱ってくれる人ももういない」のところでいつも胸がつまりそうになる。このくらいの年齢になると誰もが「完全な他人」にしか思えなくなる。自分の事を「心から」心配してくれる人間など実はひとりもいない、ということに気付かざるを得なくなる。この凄絶な侘しさと向かい合わないでいられる人間がこの地上にどれくらいいるのだろうか。「ああ寒いほど独りぼっちだ!」。まこと「鈍感さ」は天与の資質。これいじょう書くと安い悲嘆系のポエムになりそうだから止める。きょうはこのあとどうしようか。珍しく好天なんだから存分に歩きたい(北陸の冬を知らない人にはこの「珍しく」にあるへヴィー級の含意はたぶん伝わらないだろうね)。図書館はいつでも行ける。文圃閣でも行くか。岡本かの子とか寺山修司とかないかな。別役実の戯曲集なんかも読みたい。読んでて死にたくなるような詩集とかないか。それより残高だいじょうぶか。そろそろ昼食にする。モヤシを味噌で炒める。モヤシはきのう二三円で買った。天気予報が今夜もはずれた話と野球の話ばかり何度も繰り返す。明日ありと思う心の徒桜、いくらポイント貯めても死ぬときは死ぬ。字余り。哲学的ゾンビ。陰鬱などは問題ではない。「生」が陰鬱でなかった瞬間などかつてあっただろうか。