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サヨナラだけが「人生」だ、恋多き乙女の自爆テロ、変質的ダンディズム、孤独は男を成熟させるのか、まろやかな絶望と五月雨式の暗黒射精、

八月十三日

地震計さながらに、出生率という指標は、メンタリティの推移のリズムを追うことを可能にしてくれる。その値が女性一人につき二人の子供という基準を下回っていれば、当該集団はまさに集団として古い宗教システムから脱却していると確信できる。その宗教システムがユダヤ教、キリスト教、あるいはイスラム教のように旧約聖書から派生したものの場合には、特にそう断言できる。その場合、聖書の諸宗教に本来的な出産奨励主義――産めよ、増やせよ――が消えてしまっているのだ。

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上 アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか』第8章 世俗化と移行期の危機(堀茂樹・訳 文藝春秋)

午後十二時二三分。うずら、紅茶。休館日。寝つきが甚だ悪かった。三時には読むのをやめて横になってみたが一向に入眠できなかった。入眠しようと力めば力むほど胸が高鳴って入眠の気配から遠ざかっていく。当人がぜんぜん眠れない思っていても実はそれなりには眠れているのだ、という説もあるが、もちろん俺はそんな説を真に受けることは出来ない。そんなのは「痛いの痛いの飛んでけ」の類であって気休めにもならない。不眠症という不吉なワードが頭をよぎるよ。あのシオランを苦しめまくった不眠症。起床後にいつも摂る紅茶のカフェインが多過ぎるのかな。毎朝ティーバッグ三個あるいは四個を使って紅茶を淹れているが明日からは二個に減らそうか。一個では読書に支障が出そうで不安だ。俺は難物の相手をしないといけないから。きょう空から液体が落ちてこないのであればまた夕方からタンクトップ歩きを決行したい。書店にも行きたい。千と千尋のカメハメ波。きのうILLAYライブの新着動画を見た。ナツキとレイとセナの三兄弟がそろっていた。セナはチャフシャス(シェイカーの一種)を振っていた。最近はだいたい電子ドラムを叩いているのに。SENAネックレスもそろそろ作らないといけないな。ちょうどいい長さのチェーンが近所のダイソーに無いんだよな。このごろでは「推しグッズ」を作っているときがいちばん楽しいかもしれない。読書は長年連れ添っている古女房みたいなもので気分によってはウンザリさせられることも少なくない。ああ雲古を出したい。

佐高信『原発文化人50人斬り』(毎日新聞社)を読む。
また佐高の人斬り本を読んでしまった。好き嫌いは別にしてこの人の筆力は認めないわけにはいかない。本書はもちろん福島の原発事故後に出版されたもの。中曽根康弘はもちろん、アントニオ猪木、養老孟司、ビートたけし、弘兼憲史、大前研一など、国の原発推進の片棒を担いだ学者やタレントたちがばっさばっさと斬られていて興味深いことこの上なかったのだが(そんな小物斬ってどうすんのという人物も少なくなかったけど)、過酷事故(シビアアクシデント)が起きるまでなんだかんだ原発を黙認していた「原発反対派」の面々もやはり自らに猛省を強いるべきだろうな、とも思った。一回だけ中島みゆきの名前も出てきてドキリとした。いぜん本間龍の『原発プロパガンダ』を読んで、電力会社が「原発安全神話」を国民に信じ込ませるためにいかに莫大な金を使ってきたかを知った。原資は電気料金だから宣伝費に事欠くことはない。どいつこいつも「電気不足(電力需給逼迫)」の報道に接するたびパブロフの犬のごとく「停止中の原発を再稼働させろ」とか言い出すのもそうした宣伝の効果なのだろうか。原発は経済的に不合理なうえに、そのほぼ不可逆的環境汚染の黒歴史に鑑みて極めて反倫理的である。だから出来るだけ早く「脱原発」に舵を切るべきだ(そして人間は出来るだけ早く地上から消滅すべきだ)。こういうのは政府主導でないと難しい。一九五四年に原子力に関する国家予算が新設された際にも札束で顔をひっぱたくようにして御用学者をつくったんだ。「脱原発の御用学者」をつくることくらい簡単だろう。一部の「タカ派」気取りの政治家に「原子力の軍事利用(核保有)」の夢があるのは分かっているけどそんな子供っぽいことに使う金があるならベーシックインカムの財源にでも回してくれ。どう考えても軍備費なんてゼロでいい。非武装中立という「狂気の理念」を掲げながら滅亡した国が一つくらいあってもいいじゃないか。倫理的であり続けるためには狂気が必要なのだ。「安全保障」とか「リアリズム」なんてクソくらえだ。国なんてのはぜんぶクソだ。「殺すくらいなら殺されろ」。さあ厨二病はこのくらいにしてそろそろ飯食うか。味噌汁かな。五時には外出したい。熱中症に気を付けなよ俺。いつも心にウシジマくんを。

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