今日のほとんどの労働者が「労働」以外の趣味を持てないことの悲劇性について
五月二三日
六時起床、珈琲、昨日の残りのご飯、味噌汁、ワイヤレスヘッドフォン装着、Horace Parlan、C Jam Blues、PC起動。いまパパイヤとサーモンを一緒に食いたい気分でいる。スシローに「えびアボカド寿司」というのがあるが、その姉妹品として「サーモンパパイヤ寿司」も売り出してもらいたい。きっと美味に相違ない。商品企画部のひと、お願いしますよ。アイディア料はいらないから。
きのうは休館日だったから、香林坊の書店にでも行くつもりでいたのに、午後から小雨で、だから、よした。ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』をずっと舐めるように読んでいた。なかでも最大限に赤線マーキングされているのがこの箇所(以下、原文における傍点部分は太字にかえた)。
なんか物凄いことを言っている気がする。ただよく読めば当然のことしか言っていない。<資本体制>における「分割統治術」は実に大胆かつ巧妙である。就業者と非就業者を分断させて、互いに「ああはなりたくない」と嫌悪させ合うのだから。「働いている俺は偉い」とか「働いたら負けとか」とかそんなみみっちい対立はもうやめにしませんか。どっちも「資本体制史」の炎にくべられる燃料であることには何の変わりもないのだから。家畜が自分の家畜適性をいくら自慢したところで空しいし滑稽なだけだ。
わたしはずいぶん前から「労働力の使用価値」を信じることができないでいるので、ここで彼がいわんとしていることは何となくわかる。現在の人々にとって労働はほとんど宗教になっているが、それもその自分のしている労働が「世のため人のため」になっていると信じられる限りにおいてである。だが、そうした自己欺瞞(幻想)に浸れる余地のなさそうな単純労働(ドストエフスキー『死の家の記録』の穴掘り拷問のような)に携わっている間さえ、「なにもやらないよりはましである」と思い込めるのが「現代プロレタリア」なのかもしれない(「存在論的負債感覚」だけでその奉仕的・奴隷的心性が説明できるとは思えない)。社会的再生産上どう考えても不要な仕事、デヴィッド・グレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」に従事するしかない自分の無用性に気づいて狂死しないでいられる人がこれほど多く存在していることに、私はあらためて驚いてしまう。「完全に無用者である」という自覚がもはや可能でないところに、この時代の悲劇性があるのかも。
二十歳ごろ、就職活動と呼ばれているものにどうしようもない耐えがたさを感じたのは何故だったのか、ボードリヤールの考察によってやや分かった気がした。当時たしかに私はこう思っていた。「生きてそこにあることがもうすでに尋常ならざる理不尽徒労なのに、どうしてそのうえさらに理不尽徒労を重ねなければならないのか」。
とするなら、あの電通社員の過労死は「名誉」なのかね。「生けず殺さず」が労働者管理の鉄則なら、みじめなだけの労働者どもは早く死んだ方がいいことになる。われわれなどどうせもうほとんど死んでいるようなものなのだから。いかなる「革命」も俺はもう信じていない。
『選択』五月号を読む。「岸田軍拡大増税」「浄土真宗本願寺の内紛」「JA共済自爆営業」など読みどころ多数。河谷史夫の連載「本に遭う」はまいかい楽しみ。それにしても防衛費確保にむけた岸田のあの暴君的大胆さは何なんだ。彼の出身派閥の小ささゆえの迎合ぶりだけで説明できるのか。「信念ある指導者」も「信念なき指導者」も同じくらい恐ろしい。『選択』には、その主たる想定読者である「経営者層」に忖度しない編集精神を、こんごも貫いてほしい。情報には必ず耳に逆らう何かが含まれているものなのだから。
やがて入梅。「鳩も無聊雀も無聊梅雨長し」(阿部みどり女)という無聊の季節。いまのうち歩いておこう。きょうライブラリーのあと、書店に行く予定。ポパーとかが気になっている。