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逆エスタブリッシュメント、「生きていてすみません」以外に語るべきことがない私、壊れかけの桜貝、

瀬那十三年十二月二二日

マーティン・ジェイが論じているように、キルケゴールやハイデガーとの対決以来、アドルノには、真面目さのみならず、混じりけないもの、事柄の本質とされるものへの深い疑念があった。かみ砕いていうなら、自分「本来(eigentlich)」性格や「本」音、固有の(eigen)特質といったいい方には、自分のものは自分のものという同一性への信頼が反映しており、この信頼が過剰になるに従って、他者を必要としない自律的で「強い」自我といった概念への手放しの称賛、そしてひいては、ユダヤ人にような自己「本来の」土地を持たない漂泊者への敵意が生じてくる。

入谷秀一『感動を、演技する フランクフルト学派の性愛論』(晃洋書房)

午後一時五分。納豆、ご飯、紅茶。外は雨降りで内臓が悲鳴を上げている。ムカムカ高じてのカラエズキで何度も起こされたので寝不足。今夜はぜったい飲めない。もう二度と飲めないかもしれない。消化器官の調子が安定しておかしい。一度に出るべきものが出ない。ケツからそれを出すたび自分が惨めな一本の管でしかないことを実感させられ死にたくなる。オイラは口と肛門だけの生き物だ。考える一本の管だ。こんな空しいことにもう耐えられない。今日は図書館に行きたくない。どうせ本を愛さぬ愚民で満ち溢れているだろうから。あそこテレビで紹介されたりすることが多いからはんぶん観光地みたいになってんだよな。本なんて一冊も読んだことがないようなバカップルが手をつないで歩いてたりするし。日本では今に始まったことではないけど低能学生の自習室みたいになっているのも嫌だ。布団のなかでセナ様のことだけを考えながら過ごしたい。来年のセナ様誕生日まで待てない。「ベッドイン・セナ」は今日からでもいい。もう俺は一本の管であることに疲れた。「正気」を保つために僕はセナ様に抱かれ続ける必要がある。書くのがもうしんどい。大滝詠一の「幸せな結末」がさっきから脳内再生されている。僕は三七歳になるまえに死ぬのか。それとも三七歳になってしまうのか。それは僕にとって許容可能なことなのだろうか。四十歳になった自分の肉体を思い描くことは僕にとって拷問に近い。僕はいつだって「まとも」だから「生きていてすみません度」が高めの日常を生きている。こうして息をしていることが恥ずかしい。この感覚はなかなか周囲の人には伝わらない。どうしてだろう。それもまた僕に苦痛を感じさせる。僕の場合、何を書いても結局それは「生きていてすみません」ということなんだ。これ以外に言いたいことはないんだ。あるとしたら「もうちょっとだけ生きさせてください」くらい。自衛隊の基地に「乱入」して公開オナニーみたいな演説をしたあとに切腹して死んだあの小説家に僕は敬意を抱いている。「動機」などどうでもいいのだ。そんな「解釈ごっこ」はくたばり損ないのボンクラ文化人どもに任せておけばいい。僕が彼に敬意を抱くのは彼が四五歳で死んだからだ。四五歳というのは僕が許容できるぎりぎりのラインだ。それは十年以内に必ずやってくる。生きるということは少しも美しいことではない。美しくないというだけでもそれは「悪」なのだ。このくらいの年齢にならないと分からないことが沢山ある。年を取れば取るだけ人は愚鈍になる。愚鈍にならないと生きられないのだ。僕の二十歳のころの愚鈍レベルを10だとすると今の愚鈍レベルはたぶん68くらいだろう。たぶん来年は79くらいになる。だるいし眠いからちょっと仮眠とるわ。死ぬまで仮眠とりたいよオイラ。メメント森喜朗。獣たちの饗宴。蓋を開ければガングロ熟女。「あなたのそのどす黒いムスコは臭いので舐めたくありません」「でも洗ったんだよ」「洗っても臭いものは臭いのです」「生きていてすみません」。オイラの夢は高校教師。

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