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存在論的悲鳴、記号の戯れ、白紙と狂気、惰気横溢、しからずんば死か、太陽がまぶしかったから、

二月二二日

たしかにわたしたち現代人は、概念はもっていても〔思考の〕内在平面は見失っており、またそうであればこそ、哲学におけるフランス的特徴は、そうした状況と折り合いをつけるために、反省的認識の単純な秩序や、〔デカルト的〕な諸論拠の秩序や、或る「認識論」によって概念を支える傾向をもっているのである

G・ドゥルーズ/F・ガタリ『哲学とは何か』「4 哲学地理」(財津理・訳 河出書房新社)

午前十一時三五分。紅茶、ブルボンプチ。「公の場所で政治の話はするべきではない」などと言ってくる幼稚な人間に対しての模範応答は昔から決まっています、ひとつは「そういう発言自体がきわめて政治的なんですよ」であり、もうひとつは「公の場所以外に政治の話をするのにふさわしい場所などあるのですか」であります。と声高らかに演説している夢を見た。きょうは図書館に行く気になれない。ボードリヤールかブルデューの『パスカル的省察』を読むつもりでいたのに。「図書館の本はいまいち入ってこない」という感じは俺にもある。葦編三絶的に読むのに適さないのは確か。だいたいムカつくことが書いてあっても本を床に叩きつけることが出来ないなんて。「間違っている箇所」にバツ印を付けたり「修正」したりすることが出来ないなんて。そういえば昨夜も修正した。晩酌の友ペソアだ。彼はこんなことを書いていた。

世界が作られているのは、われわれがそれについて考えるためではない。
(考えるとは、目の病気だ)
そうではなくて、われわれがそれを眺め、それに賛成するためなのだ。

『[新編]不穏の書、断章』「断章」(澤田直・訳 平凡社)

「なに言ってんだ」と叫ばざるを得ない。賛成してどうなるんだ。反対の間違いだろ。それにもっと考えろよ。ペソアとはきほん相性はいいのだけど、ときどき露わになる彼の「東洋的諦念趣味」にはとても付いて行きかねるものがある。シオラン的殺気と埴谷的狂気をどうしてもそこに求めたくなる。読者というのはまじでわがままよ。彼はこんなことも書いている。

私は読書が嫌いだ。見知らぬページは読む前から私を退屈させる。私は自分がすでに知っているものしか読む事ができない。

同上

外山滋比古の言う「アルファー読み」かよ。悟ってもないのに悟ったみたいなことをいうな。そういうのは頭の弱い俗人にこそふさわしい言葉だ。「孤高」を誇る君にはふさわしくない。読書の魔味は「見知らぬページ」にこそあるのだ。「ほとんどの本は実にくだらない」と知りつつも、「全き他者」と対面する瞬間を倦まず弛まず求め続ける精神を、俺は愛する。
ともあれやはり、本はたしょう高くても入手・所有したほうがいいね。所有という言葉はあまり好きではないのだけど。所有といえば、『所有と分配の人類学』という本がいつも近くにある。これがあんがい難しいんだ。

きょうこのあとどうしよう。ぜんぜん外出したくないわ。だるい。発狂しそうなくらい何もしたくない。サルトルの『嘔吐』でも久しぶりに読みたいのだけど手許にない。ロカンタンのモデルは俺だ。さいきんそう確信するようになった。ちなみにカミュの『異邦人』のムルソーのモデルも俺だ。埴谷の『死霊』の三輪与志のモデルも俺だ。いずれも前の前の引っ越しのさいに手放してしまった。狭い部屋が嫌なのは本を三千冊も置けないところ。だいたい賃貸住宅だと次の引っ越しのことを考えただけでうんざりする。だるいからきょうは室内読書かな。あるいはもうひとつのnoteアカウントで愚痴を吐き散らかすか。いずれにしても誰の役にも立ちません。パラサイト慰撫。

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