消費は美徳、節制は悪徳、理想は非武装中立の自発的消滅志向国家、
十一月二七日
午後十二時半起床。緑茶、栄養菓子。カラヤンによるブラームス「ドイツ・レクイエム」。休館日。散歩以外では出掛けるつもりはない。「強迫さん」は中程度。扉の開け閉めがやはり気になる。なんでこの世界に扉というものがあるのか。なぜ何もないのでなく何物かが存在しているのか。ある特定の「嫌な音」(刺激)に対して「脳」が必ず反応するようになっている。「嫌な音リスト」というのがもうすでにあって、一度そこに書き込まれたものは、容易に抹消することが出来ない。集合住宅を出たい。壁を隔てたそこに他人がごそごそしているという事実に尋常じゃない不快を感じるわ。きっと本当の問題は「隣人が無神経である」とかそういう問題以前のところにある。端的にいって俺は人間がこわい。泣きたくなるほどこわい。こういう「生理的な人間恐怖」はこれまで文学でもほとんど扱われてこなかったのではないか。
きのう正午ごろ、母親が自動車で米を持ってくる。ついでに自動車で買い物に出掛ける。西泉のドン・キホーテ。十円のブルボンゼリーがまだ売られていた。もちろん買う。五個買う。店員がみなサンタの帽子をかぶっていた。大学生くらいならまだいいけどそれ以上になるとやはりキツイ。この国にはコスプレ強制罪とかないのか。買い物のあと車に戻ると細木数子みたいなババアの運転する車にぶつけられそうになる。「高級車のドライバーほどマナーが悪い」ということ裏付ける研究がアメリカで確かあったけど、さもありなん。
夜中、買ったばかりのユリ根で味噌汁を作りました。たいへんおいしゅうございました。抑鬱気分が強すぎて気が付けば自死方法の検索ばかりしているようなときはなにか温かいものを食うといいよ。
ユリ根(百合根)とはオニユリやヤマユリの球根。植え付けから収穫まで三年以上かかるとか。しかも連作に弱い。ニンニクや生姜や味噌で炒めても美味くなりそう。これからは「料理」を趣味のひとつにしていきたい。壇一雄路線も悪くないかも。ちなみオイラ、小池百合子は嫌いです。
田中美津『かけがえのない、大したことのない私』(インパクト出版会)を読む。
「ウーマン・リブの闘士」なんて仰々しく扱われることの多い田中美津だけど、当人としてはただ「わがまま」でしかいられないからそう生きているだけ。わりと自由な家に育ったということもあって、彼女は誰かにあてがわれた役割をきちんとこなすことができない。無理にこなしていると段々イライラしてくる。「男に好かれるような女を演じること」は彼女にとってただただ面白くないことだった。まして「理想的な母」なんてとても演じられない。好きな男に抱かれたいと思う「私」も本物だし、好きな男を抱きたいと思う「私」も本物。男にお尻を触られるのは嫌だけど、好きな男が触りたくなるお尻は欲しい。子供はきほん可愛いと思えるけど、夜泣きしたりダダをこねだしたりすると急に絞め殺したくなる。それが「普通の感覚」ってもんよ。俺なんか図書館や店で泣き喚いているガキをみるたび回し蹴りしたくなる。ニンゲンダモノ。「限りない優しさ」「尽きせぬ愛」なんて素朴に信じられる大人はただのバカか、そうでなければ聖人ね。生はいつも矛盾的なの。面倒臭いものなの。相反する本音の間でいつもとり乱しまくっている。彼女はこのとり乱しのなかにこそ「生きた人間の姿」を見る。彼女は学者じゃないから抽象的思弁的な方向に流れることは出来ない。東に厭世的な人あれば行って「散歩でもしたらどう」と声をかけ、西にトラウマに苦しむ人あれば行って「温泉でも行ったらどう」と声をかける。まず「今」がある。どんなに悲惨な過去を抱えていても、いい風が吹けば「人間であることも悪くない」と思える。「この世のどうしようもない残酷」もしばらくは忘れられる。「あらゆるものへの憎悪」も少しは和らぐ。不幸と快感はじゅうぶんに同居できるのね。全身が希死念慮のカタマリみたいになっている間でさえそんな瞬間が訪れるんだから不思議よ。田中美津にはほかにいくつも本があるけど、大体いつもこのことを言いたくてならないみたい。鍼灸師でもある彼女には「人間はからだ」という確信がある。「心」と「からだ」があるのではなく、「心はからだで、からだは心」なのだという。私はどうしてもこの種の「一元論」(心身一如)にはうまく馴染むことが出来ないのだが、それも彼女からしたら「体の冷え」が原因なのだろうか。「思索病」なのか。ならそれでもいいや。考えない賢者であるより考える愚者でありたいから。できれば考える賢者でありたいけどね。
さあ麻婆豆腐でもつくって食いますか。こんやは二時間くらい歩きたい。雨降るなよ。いま聞いてるモー・コフマンの「G線上のアリア」、すごくいいわ。このごろフルートの音が脳髄に染みるんだ。