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チー牛革命あるいは戦略的互恵ポンプ、男たちの憂鬱、甘い生活、凛として、

七月二八日

「いや、全然。なあ、あんた、誰かに似てるって言われたことない?」
「人間みんな、多かれ少なかれ誰かに似てるものさ。あんたタバコ持ってるか?」

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸・訳 筑摩書房)

午後二時二八分。紅茶、昨夜のマヨネーズ鶏胸肉。暑い。だるい。やはり風邪だった。しかも普段使ってるパソコンの液晶も変になって弱り目に祟り目。泣きっ面にビー。いまASUSの中古パソコンで書いている。キーボードの質が悪く押すたび無骨な音がする。配置が微妙に違うのでいちいちイラつかされる。まだ三百文字も書いてないのにもうすでに疲れている。もちろん体調が悪いせいもあるけど。こんなパソコンでは毎日書きたくないな。長く死蔵されていたのには理由がある。ただ使えるだけでもありがたいと思わねばならない。けっきょく京都のペルーフェスティバルには行けなかった。いまごろセナはドラムを叩いているかもしれない。浅黒くたくましいセナに抱かれたい。いまはセナを見るのがいちばんの薬。体が冷えてきた。風邪が長引くじゃねえか。エアコン消すわ。エアコンを長くつけていると動物としてダメになりそう。ダメになった僕をみて、君もびっくりしただろう。森田童子。

草森紳一『随筆 本が崩れる』(中央公論新社)を読む。
いぜん低家賃の木造アパートに住んでいたころ、本の重みで床が抜けるんじゃないか、という心配がつねにあった。一階に住んでいてさえそうなんだから二階に住んでいたらもっと気が気でなかっただろう。売ったり捨てない限り本はとめどなく増殖する。その増殖した本が雪崩を起こし風呂場に閉じ込められたという事件の顛末を語る表題随筆「本が崩れる」は書痴悲喜劇として読んだ。そういえば今年一月一日の能登地震のとき机上に林立させていた本が総崩れしてその整理に苦労した。高さ制限を設けるようになったのはそれからだ。読みながら思い出したことも様々にあるのだけど、きょうはもう書くのが辛いので、気に入ったところを引用して終わる。

三田にいたころ、途中から人を家へ招じいれることがなくなっていった。本で足の踏み場もなくなったからだが、新しいアパートはまだ余裕があるので、時々、人を部屋にあげることがある。
「落着くねえ」
たいていの人は、そういう。
「殺風景への皮肉かい?」
私は、すこしむっとしていう。
「ちがうよ。本のせいだよ」
ある人は、きっぱりそう言った。
はてな、私は首をかしげる。本好きが友人に多いから、そのせいかとも思うのだが、そうでもない人でも、同じセリフを吐くので、はてな、と私は考えこむのである。
書庫に並んだ本は、好むと好まざるとにかかわらず、装飾の役割をはたす。装飾には、脅しの機能もあるが、目の慰めの働きもある。このせいか。
どうもちがうようで、慰めとなるには、本が多すぎて、むしろ飽腹感を覚えるはずである。そこで、つぎに思いついたのは、
「ああ、本は、もともと木ではないか」
ということであった。
そうだ、現代人は、木に飢えている。つまり酸欠だ。木のもとをたぐればパルプ、つまり樹木なんだから、書棚の乱立は林の中にいるようなもので、気が休まっても、不思議ではないだろう。

四 本の精霊

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