見出し画像

マイナンバーとナショナル・ミニマム、理想を語らない青年はぜんいん土に埋めろ、<哲学的ゾンビ>、知の遊猟、骨太のペシミミズ、あっは、ぷふい!

七月五日

一ツの整理、無精者が遇々気紛れに部屋の掃除をしてみる。一切の整理の結末は自殺、それでいい加減にして、また凡ゆる塵埃の中に没入する。それが日々の生活。

物を書くことはある意味で遺書のなしくずしだ。子供達をして再び無駄な思索と浪費とをさせたくないという老婆心。それも結局、浪費に終るのではあるまいか。鶏が自分の孵した家鴨の子に対する懸念ではあるまいか。

思想の問題は終りを告げてしまった。一切の哲学書を屑籠の中に投げ込め!

エホバと阿弥陀は死んだ。その代りにマルクスとレーニンとかいう偶像が出現した。

辻潤『癡人の独語』「べるめるDROPS」(オリオン出版社)

七時半起床。老人時間を脱し小学生時間になりつつある。こんどこそ無理なく九時三八分起床を定着させたい。

きのうデモクラシータイムスで荻原博子がマイナンバーとマイナンバーカードはぜんぜん別物だと熱弁をふるっていた。マイナンバーとは日本国内に住民票を持つすべての人間にすでに割り振られている十二桁の番号。一方マイナンバーカードとは氏名や生年月日やマイナンバーなどの記されたICカードで、原則として本人の申請によらないと発行されないもの。政府はこのカードをよほど全国民に持たせたいらしく、マイナポイントという飴をこれまでばらまきまくってきた。ようはお前らカネが欲しいんでしょ、と言わんばかりのそのエリート的愚民観、嫌いじゃないぜ(だってそうだもん)。ポイントだけもらってみんなでマイナカード返納だ、という「破廉恥」なタダ安主義(タダより安いものはない主義)も嫌いじゃないぜ。どいつもこいつも好きなように生きやがれってんだ。ただ俺は言いたい。もし行政が個々人の所得や財産をもっとクリアに把握しようというなら、所得再分配によるラディカルな「所得格差是正策」も同時に進めなければいけない。一定の収入以下の国内居住者にお金を給付する「負の所得税」制度の可能性について、最近俺は考えている。だいたい月収二万五千の人とか、まともに食っていけないじゃん。家賃も水道代も払えないじゃん。さっこん政府は行政DXだの自治体DXだのと派手に謳い上げているが、それを進めたいのなら、生存に最低限の金もないそんな人たちに金を自動給付する仕組みの確立も視野に入れてほしいね。貧困というのは「労働意欲」や「自己責任」云々で片付けられる話じゃないのです。傘がない人にはいますぐ傘を与えろ。雨が降る日は傘になりいいいい、お前もいつかはあああ、世のおおなかのおおおおおォ、傘にいいいいィなれよとおおおおォ、教えてええくれたァ、と森進一も言ってるじゃないか。
とはいえ、なんちゃってアナーキストの俺は「金がないと生きていけない」なんてこれっぽちも思ってないんだ。俺の究極の理想は「だらしない相互扶助」。傘がなくて困っているなら、たまたま傘が有り余っているところに身を寄せればいい。傘をくれないなら暴れればいい。人に迷惑かけるってめっちゃ気持ちいいからね。どこにも傘が見つからないようならいちから作ればいい。「金がないと生きていけない」というのはとんでもなく愚かな思い込みだ。「体制(「既存」のシステム)」をその都度強化するだけのそんな迷信はいますぐ捨てちまえ。そんなのは「通貨発行権」の独占によってこそその「正統性」を維持している「政府」の論理だ。こんな迷信のせいでいったいどれだけの人間が年間首を吊っているのだろう。あほらし。

デイヴィッド・J・チャーマーズ『リアリティ+:バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』上下(高橋則明・訳 NHK出版)を読む。
ポピュラー・サイエンスならぬポピュラー・フィロソフィー。そこそこ愉快に読んだ。この著者は「哲学的ゾンビ(Philosophical zombie)」をめぐる思考実験で有名だ。「哲学的ゾンビ」とは、見た目やその振る舞いや生物学的構造は人間と変わらないが内面的意識は全く持たないという、思考上の存在のこと。「他我問題」の一種といえる。「他人」が私と同じような「世界の開け感覚(いまここ)」を持っているのか、という問いについてはどんな人でもいちおうは「理解」できる(ようだ)。ところで、「私とは何か」というよく耳にする問いは、同じように「私」を自称する他者に満ちている「この世界」のなかにあって、いかなる≪意味≫を持ちうるのだろう。「私」はいま「トム・ジョウンズ(岩波文庫)」の背表紙を「見ながら考えている」が、「いまここ」におけるこの全的質感こそが「私」なのだとするなら、この「私」と「トム・ジョウンズ(岩波文庫)」とをいったいどう区別すべきなのか。「いまここ」がつねに何らかの≪質感変遷≫のなかにあるにもかかわらず、そこに「統一的な私」を見出せる(見出しているつもりになっている)のはどうしてなのか。
「私たち」がシミュレーション世界のなかにいる可能性は排除できない、というくだりは哲学というよりSF。図書館なので「心」で爆笑しながら読んだ。ヒラリー・パトナムの有名な思考実験「水槽の中の脳」よりこっちほうが面白い。科学の想定する宇宙や知的生物体が形成される確率よりも、「脳」としてだけの機能体が瞬間的にでも出現する確率のほうがずっと高いのではないか、とする「ボルツマン脳」仮説は、バートランド・ラッセルの「世界五分前」仮説にどこか似ていると思った。
本書において「意識のハード・プロブレム」なんかの「真剣な議論」を期待した人はきっと、著者の過度なエンターテイナーっぷりに拍子抜けしたことだろう。でも、考えるための入り口としてはそれもいいんじゃないの。ちなみに俺は、「脳」という科学知を自明のものとした思索には付いていけない。だから、遺伝や脳にまつわる「科学」的知見をあまり躊躇なく「哲学」に援用するカトリーヌ・マラブーのような流儀には、懐疑的だ。いきなり数学を持ち出してくるカンタン・メイヤスーの流儀についても同様。どんな哲学者も的外れな思弁に熱中し過ぎているように見える。「ある」というこのひたすら驚くべき現前性から疎外され過ぎているように見える。
OK Google , Why is there something rather than nothing?

いいなと思ったら応援しよう!