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この醜悪な世界が続いていくことを肯定することの「犯罪性」について、みかん的リアル、

三月十三日

メディアによって運ばれるすべての映像やメッセージ、いやそればかりでなくわれわれの生活をとりまくすべての機能的なモノは、みなそれ自体がテストである。つまり、言葉の厳密な意味において、ステレオタイプや分析的モデルにしたがって、反応のメカニズムを解放する。今日では、モノは伝統的な意味ではもはや「機能的」ではない。モノは人びとの役に立つのではなく、人びとをテストする。それは、もはや以前の時代のモノとはなんの関係もない。メディア化された情報がさまざまな出来事からなる「現実」とは無関係なのとちょうど同じことだ。モノにしても、情報にしても、それらはいずれも、あらかじめおこなわれた選択やモンタージュや視点の決定に基づいているのだから、すでに「現実」をテストしてしまっているわけで、答えの決まっている問いしか現実に対して提示しなかったことになる。

ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』「Ⅵ 触覚性と二進性」(今村仁司/塚原史・訳 筑摩書房)[原文傍点→太字]

午後十二時四分。コーヒー、ジャイアントコーン。だるさがあまりない。抑鬱も軽い。あまり死にたくない。つまり「正気」ではないということだ。病院に行った方がいいかも。「自分の気分」の変動に敏感でありすぎるとその変動を感知することが「生活の主目的」のようになってしまい強迫神経症はいっそう重くなる。たとえば隣室からの雑音を感知するためだけに生きるようになってしまう。
きのうは午後三時からコハ氏と二時間半ほど閑談。もう考えたいことも尽きてきたのでそろそろ死にたいということを伝える。その夜スーパードライを飲みながらひさしぶりにパスカルの『パンセ』を読んだ。

ちょっとしたことが、わたしたちのなぐさめになるのは、ちょっとしたことがわたしたちを苦しめるからである。

田辺保・訳

これは至言だ。言うまでもないかもしれないが、生活においては「なぐさめ」よりも「苦しみ(不快)」のほうが圧倒的に多い。この「なぐさめ」はだいぶぶん「苦しみ(不快)の緩和」に過ぎないのだが、この「なぐさめ」の経験を過大に評価してしまう人たちが一定数いる。「生きてるって素晴らしい」と言いたがる人たちだ。彼彼女らは頭が不自由なので自分の「苦しみ(不快)」の経験にあまり注意を向けようとしないし、しかもそれをすぐに忘れてしまう。こういう鈍感な人たちは「苦しみ(不快)」に敏感にならざるを得ないがゆえに「厭世」を決め込む人たちを鬱陶しがる。あたかも「厭世的」人間が「心の病」をわずらっているかのように語りたがる。
『パンセ』は至言に満ち溢れている。

原物はだれも感心しないのに、絵になるとなかなか似ているといってみんなが感心する。絵というのは、なんと空しいものであろう。

同上

ちなみにパスカルはフェルメールとほぼ同時代人。「空しい」はパスカルの口癖らしい。シオランが愛読するのも分かる。

この世の空しさというわかりきったことが、ほとんど理解されていないので、権勢を求めるなんてばかげたことだなどいうと、おかしい・意外なことに聞こえるのだ。これは、本当に不思議なことである。

同上

人間の空しさを、底の底まで知りつくしたいと思う人は、恋愛の原因と結果を、じっくりと観察してみるとよい。

同上

この世の空しさがわからない人は、まさにその人自身が空しいのである。

同上

「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら・・・」というあのフレーズは恋愛の原因と結果うんぬんという話のあとに出てくる。「金正恩の痛風発作がその政治判断を誤らせ世界情勢に甚大な影響を与える可能性がある」といったことをある評論家がぺらぺらしゃべっていたのをいま思い出した。強大な権力をもつ人間の持病が歴史を動かすということはけっしてありえないことではない。「世界史」はこういう不条理で貫かれている。そうえいば、「プーチンはパーキンソン病をわずらっている」といった憶測が飛び交ったこともあった。いま山上徹也のことが頭に浮かんだ。安倍晋三を射殺した人だ。あれによって「自民党の統一教会汚染」が明るみに出た。個人の意思による行動が「日本の現代史」を変えた。井上日召の主宰した血盟団のこともいま思い出した。「一人一殺」。「人を殺す」というはものすごいことだ。何かをがらりと変えてしまう。

死んだものは、死んだものだ
生きているものは、生きているものだ
殺せ、というやつを殺せ・・・・・・
殺せ、というやつを、殺せ・・・・・・

『埴谷雄高思想論集』「平和投票」(講談社)

「私を殺そうとする者(たち)」を殺すこと。「殺す」とは「生命を奪うこと」だけを意味しない。人を殺すのはいわゆる「政治権力」だけではない(そんなものは「われわれの消極的・積極的承認」なしでは存立しえない)。問題は「システム」だ。「システム」はつねに人を去勢し殺そうとする。すべての人間は生まれた瞬間から「システムの虜囚」である。「生殺与奪の権」はつねに「システム」が握っている。「政治批判」にいかに熱心な人間もこの「システム」のことはさいごまで問題にはしない。俺にしてみれば「すでに存在している何かに隷属していること」「自由が最初から剥奪されていて誰もその自由剥奪に怒りを覚えないこと」が最大の問題なのだ。俺の「反体制」とはそうことなんだ。だから、「すでに感じられている不安や不快」を素直に受容できないのだ。「俺は不快だ、だからすべて滅びろ」というのが俺の「反体制」。「死ステム」。「死捨テム」。「死捨手無」。いや特に深い意味はない。眼と頭が疲れてきだけ。おわる。図書館に行こう。

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