国会児戯堂つまりは怒りのリンゴとマンゴープディングとどのつまりはかきくけこ
一月二十五日
たしょう雪が積もる。いささか底冷えする。溽暑の季節が甚だ待ち遠し。ただ気分は上々株式上場。図書館に行けないこともないだろう。このまま世界一面が真っ白になればいい。真っ白になってどいつもこいつも生き埋めになっちまえ。真っ白しろすけ出ておいで、でないと眼玉をほじくるぞ。
どうした縁か福沢諭吉『学問のすゝめ』を読みはじめる。前の土曜日に友人と車内で喋っているさい、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」のことが話題に出たせいかもしれない。封建的旧習の打破に急なため矯激の言少なくなく、たびたび閉口させられるものの、こういう勢いなくして新時代など開けないのかも知れない。こういう時代に食ってかかる負けん気は嫌いじゃない。
周知とは思うが、上の「名言」は一七七六年の「アメリカ独立宣言(The Declaration of Independence)」序文にある「all Men are created equal」の意訳である。
これがあまりに一人歩きしまくっているため、おうおうにして都合よく誤解されている。この言葉のあとに「されば」と「されども」が続くことはあまり知られていない(だからたまには古典を読もうね)。「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや」。要は天は人の上にも人の下にも人を造らないのにどうしてこれほど個々人の間に差があるのよ、と嘆いて見せた挙句、冷厳にも諭吉はこう言い放つ。「されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」。まあつまり、これから学問は大事なんだよということ。これまた人口に膾炙しまくっている「一身独立して一国独立する」もこの書に出て来る。
私としては一万円札にでかでか印刷されてやがる諭吉なんて糞喰らえなんだ。やれ実学だやれ独立だと、この人には上から目線の説教癖がある。幕末の志士というのにはこういう独り善がりで暑苦しいのが多い(気がする)。もっとニヒル(厭世)でペシミ(悲観)な変人狂人はいないのか。上昇志向なんて野暮の骨頂。だから司馬遼太郎『坂の上の雲』に出て来るが如き自信みなぎる健康な人物たちも苦手だ。うっせえ、うっせえ、うっせえわってなる。とはいえ学問はやっぱ大事よ。学に乏しい人間が増えすぎると人間集団は畜群となる。もともと無理の多かった「民主主義」は修復不可能なくらいに腐敗する。陰謀論やヘイトスピーチが跋扈する。言論空間はますます空虚になる。人心が薄っぺらになる。SNSはそんな薄っぺらさを可視化させたに過ぎない。諭吉の嘆く「政府ありて国民なし」状態はいまに至るまで続いている。なにかあれば「政府が悪い」と言い立てる愚民どもがひしめいている。もう嫌じゃ嫌じゃ。
そいえば私は『学問のすゝめ』をこれまで一度も読んだことないのかな。二十代半ばに怒涛の乱読時代があったのでその間に読んでいるかも。いずれにせよ記憶にございません。
雪のため昨日の図書館内は人少なく寥寥としていた。オスカル・パニッツァ『犯罪精神病』(種村季弘/多賀健太郎・訳 平凡社)を手に取ってしまい、半分ほど読む。ヨーロッパの文学に疎い私はこの名をはじめて聞きました。知る人ぞ知るようなカルト作家といえるか。たとえばチャールズ・ブコウスキーみたいな。開けっ広げの厭世的アル中文士であるチャールズに比べ、形而上学的感性に恵まれたオスカルのほうはもっとはるかに「根の深い狂気」をその著述に含ませている。監獄に縁があるぶんジャン・ジュネに近いか。
彼は一八五三年ドイツに生まれた。革命家を自称するグループの設立に関与したり、発表した短篇小説がもとで風俗壊乱罪の嫌疑をかけられたり、少女凌辱の嫌疑をかけられパリに亡命したり、最終的には監獄に収監されたりと、その生涯は波乱に富んでいる。いいですね。俺もこんな劇的な生き方に憧れます。
最初に収録されている「犯罪精神病」からしてもうすでにぶっ飛んでいる。王や国家に楯突く反権力的な人間をことごとく精神病と決めつけ罵倒しまくっているんだから。マジで怒っているのか、あるいは精神医学のカリカチュアライズをしていいるのか、判然としないところがいい。それとも、悪辣の表現を介しながら限りない敬意を表するという、禅でいうところの「抑下託上(よくげたくじょう)」を実践しているのか。つまり称賛という「褒め殺し」とは真逆のことを。
とはいえこのあとの「天災と狂気」「幻影主義と人格の救済ーある世界観のスケッチ」を読む限り、オスカルが天才というものに尋常ならざる憧憬を抱いていたことは疑えない。というか自分をそんな天才の一人に数えていたのではないか。私はこのごろ凡人と長く居ると気が滅入ってくる。凡人というのは押し並べて不潔だ。いつまでものうのうと生きるつもりでいるからね。オスカルとはいずれ盃を酌み交わしたいものです。
唯物論とも唯心論とも付かない思索を一人合点に進める章からは並ではない昂奮が得られました。どんな理路を辿ったのか最終的にデーモンが出現する。デーモンとはこの場合「理論の範囲外」を示す何ものかだろう。「いまここ」の現存在は「そもそものはじめ」から混沌なのであり、この「驚異すべき混沌」に馴染んでいく過程を私は「日常」と呼ぶのである。すでに存在しているなにごとにも馴染めないし、馴染みたくもない私は、きょうも考える。
そろそろ小松菜炒めて飯食って、オスカルの続きを読みにいくか。