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「超」意味から「脱」意味へ、お前の「自我礼賛」は間違っている、桜の葉、「勉強は好きになった方がいいよ、暇つぶしになるから」と砂かけババアは言った、

十月二九日

偉大なひとたちにとっては、完成された作品よりも、生涯をつうじてそのための仕事が続く断片のほうが、いっそう重要である。じじつ、完結させることに無類の喜びを覚え、これでまた自分の生活に戻れたなどと思う者は、かれらよりも弱い、ほうけた人間に過ぎない。

ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十篇』一方通行路(抄)(野村修・編訳 岩波書店)

午後十二時四五分。ミックスナッツ、紅茶。どうしても正午を過ぎてしまう。これから寒くなると布団から出るのがいよいよ苦痛になるぞ。外出が億劫になるぞ。どうする。どうする俺。閉経大出血。いつもこの時期になると必ず冬眠願望について書いてるな。気温が低くなると決まって抑鬱が強くなる。活動するのは夏だけはいい。思えば遠くへ来たもんだ。疑似反逆精神を持て余していた学生時代、ここまで遠くへ行けるとは思っていなかった。「ふつう」に就職して給料生活者になり下がっていた可能性も無ではなかったんだ。そのことを思えば今の俺はそれなりによくやっている。非社会的エゴイズムを身を削りながら貫き通している。じっさい俺は何も恐れていない。人を舐めている。人を舐めなければ思索など出来ない。独自に考えることなど出来ない。ほとんどの人間は凡庸だから。自分の凡庸さを憎むことさえ出来ないほどに凡庸だから。僕に説諭したり忠告したりしてくる連中は特に。凡庸人の言うことはだいたい間違っている。凡庸人は何であれ「角が立たぬよう」互いの言動を中途半端に模倣し合っているだけだから。だから狂気や犯罪でさえ凡庸になる。既に何かが存在しているというこの超包括的確信。それとしか呼びえない何か。「それは常に自我に先行している」と「自我は常に社会に先行している」というのが俺の原理。もっとも凡庸な人間は凡庸なかたちでしかこれを「誤解」出来ないのだけど。学問は信念に一定の根拠を与える。学生時代の地下書庫での乱読は無駄ではなかった。人間が抱きうるたいていの思想はアリストテレス時代にはほとんど出揃っていてしかも陳腐化している。「太陽の下に新しきものなし」(Nihil novi sub sole)というのはおおむね正しい。セナ様のあの憐みを滲ませた超俗的表情を見ていると特にそう思う。セナ様は同じ愚行を繰り返す人間どもに心底呆れているのだ。堕落王国のヘラクレスに俺はならねばならない。英雄たるものいつまでものうのうと生き続けるわけにはいかない。そのことはもうずいぶんまえから意識している。佐野菩薩は俺に何を暗示しているのだろう。セナ菩薩は俺に何を暗示しているのだろう。正直言っていまだに俺は惑乱の渦中にある。いますぐ菩薩になることを俺は命じられているのか。「もうお前は地上でじゅうぶん修行した、そろそろ戻ってこい」ということなのか。反宇宙論的憤怒の淵源。佐野菩薩の睾丸もセナ菩薩の睾丸も間違いなく俺の「故郷」である。でも俺はそこに安住するわけにはいかないのだ。そろそろ炊飯ボタン押すわ。きょうから現場復帰だ。読みたいものがたくさんある。内にも外にも読みたいものがありすぎる。酒はもう飲まない。俺の絶望は酒なんかではどうにもならない。俺の絶望は人間的絶望ではなく準菩薩的絶望なのだから。もっと学問したい。パー子と花子のしゃべくり漫才。けったくそ。

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