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「寂しがり屋は人間嫌いではない」、身を切るM字開脚あるいは典型左翼ともみあげちゃあしゅうの淪落、
十一月二三日
イギリス起源の現象であるダンディズムをフランスで標榜し、新たに定義づけたのはバルベー・ドールヴィイの『ダンディズムとジョージ・ブランメルについて』(一八四四)という著作である。
ダンディズムとはひとつの生き方そのものであり、人間は服装など具体的に目に見える側面だけで存在しているわけではない。それは様々な微妙な差異から構成されるひとの生き方なのだ。とても古くて文明化された社会、喜劇が稀になり、倦怠が礼儀作法によってほとんど払拭されることのない社会においてこそ、こうした生き方がつくられる。
ダンディズムはつねに思いがけないもの、慣習や規範に従う者たちが予想できないもの、要するに奇抜さを創造しようとする。「それは既成秩序にたいする、ときには自然にたいする個人の革命である」。
午前十二時三七分。男性の下半身系ネット広告の写真に使われそうなシュガー・スポットだらけのバナナ四本、紅茶。これから礼拝の時間を増やす。礼拝以外に俺のやるべきことはない。「セナ伝」と「セナ言行録」を書きながらも斎藤元彦研究はいちおう続けている。やつにどんなけ時間を割けばいいんだよ。言うまでもないけど今回の「騒動」を知るには彼にだけ焦点を当てていてはだめだ。これは斎藤元彦(正確には斎は齋)を「悪の権化」にしたり前西播磨県民局長を「正義の告発者」にしたりして分かるような簡単な話ではない。「単なる権力闘争」として片づけるのも間違いだ。いずれどこかでちゃんとまとめる。兵庫県議会の勢力図、兵庫県の政治風土、公益通報者保護法やそれをめぐる解釈、各種メディアの報道傾向や斎藤元彦の経歴などを自己流にまとめたものが既に膨大な数にのぼっている。法律や法令の実際上の運用に関しては専門書を読むだけでは分からない。俺はこの問題にもっとも通暁した男になりつつあるかもしれない。この問題にたまたま関心を持ってしまった俺がきちんとした記録を残しておかねばならないんだ。どうせ彼は歴史に名前など残さない。二十年後にはほぼ間違いなく誰も知らない人になっている。賭けてもいい。どう見てもあの顔は「偉人の顔」ではない。「巨悪の顔」でもない。あれは「アンドロイドの顔」だ。三島由紀夫の日本についての「予言」の表現を借りるなら、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の顔」。早く研究を終わらせて斎藤元彦のことを忘れたい。もうやがて師走だよ、どうしよう。そろそろ「今年の十冊」のことを考えたくなるころだ。「実感」としては今年は去年ほどは読めなかった。セナ様のせいかな。あるいは元彦のせい。だから菩薩と凡人を並べんなって。今年は地震とともに始まった。テレビがなくてよかった。政府の能登放置プレイに一言も触れない在京キー局の「復興」感動ポルノを見せられなくて済む。日本はもうゾンビ国家さ。俺はゾンビのなかのゾンビになる。誰もが「他人よりも頭のいいアピール」をするのに必死だ。自分のことを本当にクズだと思うためには相当の勇気が必要らしい。クズのなかのクズになるための「不断の努力」。「真実はいつでも醜悪で残酷だから誰も見たがらない」とは限らない。「吉永小百合はウンコしない」と愉快げにうそぶくサユリスト。俺もビアスの『悪魔の辞典』みたいなものを書きたい。さいきん書き溜めているのだけど出来のいいものはごく少ない。いま試しに三つ書いてみるわ。
孤高:誰からも相手にされない人間がしばしば好んで演じたがるもの。
義憤:自分の惨めさからの逃避。
ソーシャルメディア:ほんらい酔っぱらっていなければ書けないようなことを素面の人々に書かせまくる自己愛増幅装置。
こういうのではダメ。ダメの見本。なんか臭い。もっとアフォリズムのセンスを磨きなさい。アフォリズムのセンスは二十代前半のほうが光っていた。もう書くのに飽きてきた。雲古して飯食ってビブリオバウムに行くわ。雨降ってて嫌だな。今夜も歩けそうにない。いつも履いてる靴の底から雨水が染み込んでくるんだ。自分で補修できないかな。あとで調べる。自分の出来ることはぜんぶ自分でやる。それが「自立」ってもんだ。俺は「自立の王」になりたい。あ、やっぱなりたくない。ペンタゴンと闇市。パリサイ派の呪い。
【備忘】布施祐仁『従属の代償』、アクセル・ホネット『承認をめぐる闘争』