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ノーベル賞をもらえなかっただけのことで毎年「恥をかかされる」村上春樹、政治家の政治家による政治家のための政治、コモドドラゴンの味噌煮、矢継ぎ早のエロス、君が代合衆国、屍より腐るのが早いお前の瞳、
十月八日
子ども向けの新しいメディアや物語は、それの正体を大人がつかめない(おもしろさがわからない)ため、恐れから否定的に評価されることが多く、「世界――」の始まった頃、アニメはそうした評価の対象であったわけですが、そこに親が内容もよく知っている物語が登場したのです。これほど親を安心させるアニメはなかったでしょう。アニメの側にとっても、そのメディアを大人に受け入れてもらうための、おいしい事態であったはずです。
少し皮肉な言い方をすれば、「名作アニメが子どもたちの間で大いに歓迎されていた」のではなく、歓迎していたのは親であり、彼らが理解できるアニメを子どもも一緒に観ていた。でも、子どもにしてみれば、アニメを堂々と観られるのなら、それでもよかったという辺りではないでしょうか。
午後十二時一〇分起床。くしゃみ、鼻水。肌寒い。いよいよロングウォーキングに向かない季節になってきた。受難の季節。夜間、すぐ空腹になって困る。「食欲の秋」なんてそんな風流なものではない。ここ数日、隣の「乞食」爺さんがちょくちょく小銭を借りに来る。たぶん年金支給日になったら返しに来るのだろうけど返しに来なくてもべつにいい。哀れだから。助けを求めてくる人間を軽蔑しないでいるのはまことに難しい。同情は知的成熟には欠かせない、と誰かが言っていた。同情にはたぶんに傲慢な成分が含まれている。ストーブがわりの電熱器、赤く燃えていた。というか「村上春樹のノーベル賞逃し」の話題って一体なんなの? もう毎年恒例化してるじゃん。無駄に恥をかかせるための復讐だろこれ。記者連中の嫉妬マジこわいわ。だいたい北欧の小国がくれる章ごときでいちいち騒ぐんじゃねえよ下衆ども。
中島岳志『石原慎太郎(作家はなぜ政治家になったか)』(NHK出版)を読む。
「戦後と寝た男」石原慎太郎についての論考。著者は日本の保守を「戦中派保守」と「戦後派保守」に分け、前者にはおおむね同感できるが、後者にはいまいち同感できないという。石原慎太郎の本は『太陽の季節』(新潮社)と『法華経を生きる』(幻冬舎)しか読んだことがない。政治家としての彼に鮮烈な印象を受けたことはない。ひょっとしたら後世の歴史家から高く評価されるような「隠れた業績」があるのかも知れないが、いまの私にはなにも見つけられない。けっきょく政治は彼の「自己実現」の道具に過ぎなかったのだろう(それが悪いと言うつもりはない)。若くして小説家デビューしたもののどうしても実存が充たされなかった石原は、その着地点を「肉体」に求めては裏切られ、「祖国」に求めては勝手に失望し、しょうがい江藤淳のいう「ごっこ」の世界で空転し続けた。その点で彼は、三島由紀夫同様、戦後日本の空虚さと滑稽さを「体現」する存在だったと言える。それにしてもかつての「価値紊乱者」が自民党の有力者にすり寄っていく姿はなんとも醜い。
もともと著者が「保守思想」に目覚めるきっかけは学生時代に西部邁を読んだことだという。ああ西部邁! 「反左翼」と「反米自立」を死ぬまで標榜し続けた人。私もいちじきずいぶん彼の本は読んだ(お気に入りは『保守の遺言』と『サンチョ・キホーテの旅』)。まいかい自分のシンパイザーを呼んでは放談を繰り広げる「西部邁ゼミナール」(TOKYO MX)もユーチューブで観た。私は彼がしばしば批判対象を「戯画化」し過ぎることに不満だった。知識人ほどこういうことをやりがちだ。「平和主義者はお花畑」なんて言いたがるそのへんの自称タカ派のオッサンとあまり変わらないようなことをかなり平気でやってしまう。西部は「大衆」が嫌いだった。居酒屋でくだを巻く低俗で子供っぽいサラリーマンなんかはとくに嫌いだった。分からなくもない。ただ私は西部のそんな「反大衆」的身振りのなかについ「子供っぽさ」を見てしまうのだ。自分の弱さを素直に受け入れられないところにも。
もう昼飯食うわ。サバの味噌煮温めて。