人類皆兄弟、だから殺し合いを止められない、背広を着たケダモノ、「お前の生涯賃金は矢沢の2秒」、
瀬那十三年十二月十三日
午後十二時時四九分。チンしたご飯にシーチキンと醤油かけたもの、紅茶。午前九時くらいに目が覚めてカラエズキが出た。布団から出たくなさ過ぎて涙も出てこなかった。僕の抑鬱気分の基調を成している「何か分からないが大変なことをやってしまった、もう手遅れだ」というこの焦燥的罪責感についてはいずれ詳しく書きたい。「だいたい図書館にいます」として書き始めてから今日で二年だということをさっき通知で知った。二〇二二年(瀬那十一年)の十二月から毎日こんな豚も食わないようなものを書いてるんだな。書くことはしばしば精神安定剤ではなく精神錯乱剤になる。強迫神経症(強迫さん)絡みの呪詛と殺意に満ちた記述がこのごろ少なくなったのは、その大きな原因を成していた隣の爺さんと頻繁に顔を合わせるようになったからだ。去年の九月(たしか阪神のリーグ優勝の二三週間後)の夜八時ごろ、電気料金の滞納で電気を止められた爺さんがアパート共有のコンセントから電気を部屋に引いているのをたまたま見つけた。それで僕は金を貸すことにした。賃貸住宅において「被害者意識の肥大化」を抑えるためには顔の見える関係を作っておいたほうがいい。この爺さんが生活保護を受給していることを現在は知っている(タバコ代の540円さえ借りなければならないなか病院に行っていたから)。「早く生活保護を申請したほうがいいですよ」といくら助言しても「人様の世話は受けたくない」と頑なに拒み続けるので、「ああ貧乏人のプライドほど不潔なものはない」と呆れていたのだけど、いまになって思うと、もうすでに受給しているからこそそれを悟られまいとしてそんな「強がり」を言ってたんだな。弱者地獄そのもの。生活保護にまつわるこのスティグマの強さは異常だ。たかが金じゃん。「いま醤油切らしてるからちょうだい」って感覚でもらえばいいんだよ。なんでそうならないんだ。なんで誰もがそんなに金を特別視してるのか。それは「フェティシズム」だけで説明できることなのか。マルクスの『資本論』やグレーバーの『負債論』を精読すれば分かることなのか。「醤油ちょうだいって感覚で金をもらえばいい」というのが「理想論」だってことはいちおう分かっている。だって醤油をくれるように金をくれる人なんてそんなにいないもん(本当はみんなそういうふうになるべきなんだけどね)。相互扶助とかアナキズムとか関係なしに、人は無条件に助け合わねばならない。「善意」なんて介在させずに。何かを受け取るほうはいつだって堂々と受け取らねばならない。本当は「ありがとう」なんて言ってはいけないのだ。それは「恩恵」ではないのだから(感謝は支配・服従関係の始まりだ)。持ってない者はつねに受け取る「義務」があるのだ。それを持ってないと生きられないのなら尚更。こっちはそれを持ってないのだからそれを持っているあなたはそれを私に与える義務がある、とはっきり言えばいいのだ。まあ、かくいうオイラだっていずれ親が死んで生活保護を受給するしかなくなるとその申請に際して大いに躊躇するかもしれないんだけどね。「理想と現実は別」ということを思い知らされるかもしれない。困ったな。親が膨大な資産を残してくれるのが一番いいんだけどな。書類書いたりとか面倒臭いもん。ときどき鳩山由紀夫への羨望で気が狂いそうになる。「賃金労働くらいしろよ」と言いたくなる人がいるかもしれないけれど、賃金労働が出来るくらいのメンタルがあるならいまごろ世界征服してるよって話。働ける人ってその気になれば何でも出来る人だからね。俺、そういう凄い人たちと自分を比べないことにしているの。賃金労働できる才能に恵まれている人たちは、賃金労働できる才能にぜんぜん恵まれていない人たちをちゃんと支えないといけない。持って生まれた才能で稼いだ金は世の中に還元すべきなんだ。こんなこと俺の口から言わせないで。そういえばずっと以前、友人と飲みながらこんな議論をしていて、殴り合いの大喧嘩に発展したことがあった。「教養のない人間ほど金を過大評価する傾向がある」とかつての俺は繰り返し言っていた。いまはそうは思わない。少しも思わない。こんにちでは、教養の有る無しにかかわらず、誰もが金を過大評価している。そこそこ金のある人が貧乏人と接する時に感じる恐怖や不快を分析するのは僕にはひどく苦痛だ。僕のような「天性の心理学者」はそういうことが分かってしまうんだ。金のない人間がふだん抑圧しているドス黒い自己憎悪や世界憎悪が滞留して発する腐臭に鈍感になることは難しい。「明るい貧乏人」や「善良な貧乏人」なんてのはフィクションの世界でしかありえない。(少なくとも今日の)貧乏人はだいたいにおいて全てを呪いながら生きている。全身ルサンチマンまみれだ。身も心も歪んで怪物と化している。怪物にならないと絶望で発狂死してしまうのだ。「そんなことないよ、金がなくてもけっこう楽しいよ」といくら快活を装ってみたところで傍目には痛々しいだけだ。その無理におどけたような態度が彼彼女の鬱屈を過剰なくらい物語っている。貧乏人はその絶え間のない劣等感、恥辱感、喪失感、嫉妬、悔恨などのあらゆるネガティブエネルギーを隙あらば「自分よりも恵まれている他人」に向けようと身構えている。だから「幸運な人」や「成功した人」は貧乏人には出来れば近寄りたくない。結果、貧乏人の周りには彼彼女と同じくらい無能で卑小で遅鈍で不幸な人間しかいなくなる。世界は今日も安定して分断されている。ああ図書館に行くのしんどい。ずっと布団の中にいたい。どうしようかしら。セナ様に抱かれたい。セナ様のマフラーになりたい。「明日のことを思い煩うな、明日のことは明日自身が思い煩うだろう」と言ったイエスは正しすぎる。生き物がっかり。世界の中心で「否」を叫ぶ。ペットボトルの中は小便。