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太陽も死を直視できない、ラ・ロシュフーコー、

七月二二日

敢えて端的にいってみれば、偶然投げこまれた時と所と肉体のなかで自身も予期せぬ何物かになるのが、私達の運命である。

『埴谷雄高思想論集』「思想の幅」(講談社)

午後十二時二八分。粉末緑茶、カルパス。ジージー蝉が鳴いている。さいきん起床後くしゃみが二三回でる。モーニングアタックというやつか。一人でいるのにくしゃみが出るたび「ごめん」とか何とか言ってしまうのは古い「迷信」の名残なのか。寝ている間ほぼずっとサーキュレーターの風に当たっているのはあまり良くないかも知れない。良くないとはいえばこのごろ度数の高い酒をほとんど薄めないで飲む快楽を覚えてしまったことだ。暇さえあればセナを見てしまうのは相変わらず。目が覚めてはセナ、飯を食ってはセナ、図書館で目が疲れたらセナ、オナニーしてはセナ、シャワーを浴びてはセナ、酒を飲んではセナ、寝る前のセナ。たぶんいまの俺はセナ本人よりもセナの顔を見ているだろう。さっきもILLAYライブの新着動画があったので二回見た。みんなでジャンプするところでセナだけやたら照れていた。どんなことでも照れながらやったらもっと恥ずかしくなるんだよセナ君。エンターテイナーの家に生まれたセナがそんなことを知らないはずがない。瀬戸内寂聴が恋とは雷に打たれるようなものだとか言ってたけどほんとそれだよ。見るたびに美しく逞しくなっている彼は俺みたいな薄汚れた男が近づいていい存在ではない。セナが足の裏を俺に向けながら「お前の顔が映るくらいピカピカに舐めろ」と命じれば俺は喜んでそうするだろう。でも俺はセナに踏み殺される価値もない。セナの前では俺はゴミムシ以下になる。昨夜は空から液体が落ちていなかったので少しだけ河川敷を走った。この蒸し暑いなか長く走るのはドMだけ。走っている途中、「何十分もちんたら走るより一定の距離を全力で走るほうが効率的ではないか」と直感した。俺は晩酌の時間を走る時間なんかに奪われたくない。だいたい走るのは苦痛でしかない。体脂肪率をいちばん早く落とせる方法が走ることだと思っているから走っているだけだ。さいきんは腹回りの中途半端にたるんだ肉が眼に入るたびナイフで削ぎ落として炒めてやりたくなる。片栗粉をもみ込まなくても柔らかくなるぞ。俺はヘドニストだから基本的には気持ちのいいことしかしたくない。すべてはシックスパックのため。シックスパックになって自己愛的快楽を最大化させたいのです。

上野千鶴子/高口光子『「おひとりさまの老後」が危ない! 介護の転換期に立ち向かう』(集英社)を読む。
思いのほか愉快に読んだ。介護保険制度が出来たのは2000年。以来ずっと「被虐待児」だったという。三年に一度の改定のたび悪くなっているからだ。上野はいわずと知れた「フェミニズムの旗手」で、「在宅ひとり死」の提唱者でもある。高口は「カリスマ介護アドバイザー」として業界では有名らしい。いきなり、介護する側からすれば好きな老人もいれば嫌いな老人もいるのは当たり前、といったことがずばずば話される。介護は奉仕じゃない、なんて言われてみれば当然のことなんだけど、押し並べてこういう当然のことほど忘れられやすい。介護の現場には医師>看護師>介護士というヒエラルキーが存在しているらしく、上野はずいぶんそのことに腹を立てていた。障害を個人の問題として捉えその治療を主目的とする「医療モデル」がいまも介護施設などでは根強いようだ。「誰もがいずれ老いて死ぬ」という現実を直視できる人は驚くほどに少ない。あるていど賢そうな人でさえいつまでも体が自由に動くものだと確信しているように見える。「他人に下の世話を受けるくらいなら死にたい」なんてこと言いたがる人がよくいるが、人間はそんな簡単に死ねるものではない。「死をなめるな」と言いたい。かりに生きるのに苦痛を感じている人間が「安楽」に死ぬことを「支援」する何らかの社会装置があったとしても、ほとんどの人はそれを利用しないだろう。いつも死にたい死にたいと嘆きまくっている「厭世主義者」ほど生に執着するものなんだ。きょうは休館日。天気がいいので文圃閣にでも行くか。そのまえに飯。ネギを炒めて納豆。悲しみのシベリア本線。オイラは世紀の爆弾魔。

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