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世紀末孤児伝説・日本海絶望アパート、冷凍深海魚、愛の殺戮装置、意味と眼球、

二月二十日

「人生を下りることと、人生から下ろされていると感じるのとは違うさ」
トコは、考えこむ顔になっていった。
「いいか? 前者は、自分が自分の人生の主人だという自覚があってこそ、つまり、自分が自分を生きているという感覚、そしてさらにその自分を生きつづけるより他にはないという認識を前提としての行為だ。が、後者はそうじゃない。自分には、もっとべつな人生がある、という気分があるために生まれる感覚でね。できたら、その現在とはべつな、違う人生に乗りうつりたい。この気分を、おれはロマンティックだというのさ」
「・・・・・・だとしたら、おれはロマンティックじゃない人間なんて信じられない」
「そりゃそうだろう、誰だっていくらかはその気分がある。でも、それを公然と表明するなんて、現在の自分を人生を捨てたいということ、つまり死にたい、と叫ぶことさ。もっとべつなふうに生きたい、という気分がそれほど強いわけだ」

山川方夫『長くて短い一年(山川方夫ショートショート集成)』「"健全な心配“」(日下三蔵・編 筑摩書房)

午前十時三十八分。紅茶、アルフォート、アーモンド。眠さが強い。何もしたくなさ過ぎて却って活力が湧いてくる。やけのやんぱち。気が付けば野原ひろしの推定年齢を超えてしまった。二階氏の政治資金収支報告書の事が頭から離れない。2020年から2022年の三年間に書籍代として約3500万円を支出したらしい。上級国民ともなると本の買い方も違う。徒歩で何時間もかけて古書店に通っている俺とは天の地の差。なんかバカバカしくなってくる。俺もあんな買い方がしたい。いや皮肉抜きで。『ナンバー2の美学』でも読んで勉強するか。なんだって? もう遅い?

外山滋比古『新編 かたりべ文化』(筑摩書房)を読む。
「日本は高温多湿だからべたべたした接触を嫌う」といった気候決定論めいた日本人論がちょくちょく出て来て、そういうところはあまり信用できないが、「アルファー読み」「ベーター読み」といった用語法については、単純ながら面白いと思った。アルファー読みは、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」とか昨日のプロ野球の結果とか、もう既に人々が知っているようなことを読むことであり、そういう読みかたをする読者をアルファー読者という。ベーター読みは未知のことを読むことで、そういう読み方をする読者をベーター読者という。また著者によると、文学読者はアルファー読者とベーター読者の中間的読者と言えるが、最近(一九七〇年代後半)になって新しいタイプの中間的読者があらわれたと言う。ガンマー読みをするガンマー読者である。ガンマー読者は、書き手の感情や思想を「ナマの形」では受け取ろうとはせず、もっぱら編集によって「加工」されたものを好んで読む。著者はマスコミのほとんどはアルファー読者のアルファー読みを満足させようとしていると嘆く一方、現代(一九七〇年代後半)はガンマー読者の時代であると診断する。これは二〇二四年の今でも変わらない。むしろそうした読者の割合は当時よりももっと上がっているかもしれない。ハイデガーやカントの書いたものよりもハイデガー入門やカント入門の類を読む人のほうが多いからね。いまはどこを見ても「ファスト教養」系のコンテンツばかりだ。学識を得るのにも「コスパ」や「タイパ」を気にするなんて愚民にも程がある。「一冊で分かる西洋史」。アホか。

読むという以上、未知が読めなくてはうそである。既知のことを繰返していては、経験の拡大もなければ、進歩も望めない。ところが、ベーター読みはなかなか抵抗のある読み方だから、たえず努力していないと、どうしてもアルファー読みに流されてしまう。読書家と言われる人ですら、ほとんどベーター読みをしないでいることが多いということがありうる。自分の専門の本しかほとんど読まない学者なども、いつのまにか高度ではあるが、アルファー読者になっている。

「反読者」[原文傍点→太字]

著者はさらに、既知のことを書く(語る)「アルファー書き(語り)」と、未知のことを書く(語る)「ベーター書き(語り)」というものまで提出する。そのへんの俗人はほとんどアルファー書き(語り)に終始していて、ベーター書き(語る)の出来る人はきわめて少ないと言う。思考癖や思索性のない人間の文章や話があんなに退屈なのはきっとそのせいだな。ところで俺にそんなものはあるのか? だいたい今日の日記だってほとんどアルファー書きじゃないか。反省。

今日のだるさとねむさは半端ない。だるいだけじゃなくて死にたい。世の中のすべての人間が希死念慮に苦しめばいいのに。

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