「命をいただくんだから一生懸命生きなきゃとかいう自分勝手な論理が大嫌いだ」と俺は言った、「ときどきすべての男が性犯罪者予備軍に見えてしまうの」と彼女は言った、
十月七日
午後十二時四〇分。黒糖かりんとう、紅茶。休館日。セナ様に壁ドンされる夢を見られたらいいなと思ったけど見られなかった。ああもうしんどいわ。酒やめたらもう少し抑鬱度の低い「朝」を迎えられるだろうか。石引温泉で三時間ほど湯に浸かって英気を養いたいものだけど本日の雨はしつこそうだ。いま石破温泉って入力してしまったわ。俺の四分の一はまだ寝てる。洗濯もしたいけどこういう日は乾くのがべらぼうに遅そう。もうクローゼット掃除やろうか。このそこはかとないカビ臭さへのイラつきが無視できないレベルに達しつつある。まじ腰が重いわ。輪島の七階建て倒壊ビルがまだそのままってのがすごいね。政府の能登放置プレイぶりを見事に象徴している。もう原爆ドームみたいに残してもいいんじゃないか。政府の非情さを後世に伝える遺産として。日本なんて三十年後にはもうないだろうけどね。いま調べたらきょう公費解体が始まったみたい。それに並行して国交省がビルの倒壊原因を調査してるみたい。もう何千万回も言われていることだろうけど、もし地震があったのが東京や大阪だったら「復興」がここまで遅れることは絶対になかっただろうね。そういえば水木楊の小説に『東京独立共和国』というのがあったな。「異性愛規範」と「男の欲情」について考えることが最近やたら多い。これまで私は「フェミニズム系」の本を数え切れないほど読んできて、何度となく目を見開かされてはきたが、フェミニストを自称する気にはとうていなれない。私は自分の内なるミソジニーをかなり強く自覚している男だ。「女好きの男(オヤジ)のミソジニー」は世にありふれているが、私のは「女嫌い男のミソジニー」なんだ。女に性的魅力を少しも感じないうえに、しょっちゅう「なんで女はこう軽薄なんだ」と思っているから。私はセクシストでさえあるかもしれない。この自覚の疚しさがあるからこそフェミ二ズムに接近したんだなきっと。私の「オヤジ批判」は一種の「償い」なのかもしれない。ぜんぜん「償い」にはなってないと思うけど。私は「異性愛」(仮にそんなものがあるとして)なんてものは倫理的にも美的にも認められないの。語弊を恐れずに言うなら、男が女に「欲情」出来るのは、「女は弱き者」だという自己優越意識が男にあるからなのね。男の欲情とは何よりもまず自分の「男らしさ」への欲情なの。単純化して言うなら、「女見てチンコが立つ俺まじ男らしいぜっ!!」という欲情なのね。そこでは女は「弱き者」として既に性的対象化(性化)されている。だからキモいわけ。だってそれ「痴漢」と一緒だから。文字通りの「自己愛」(自己発情)だから。ちなみにロリコン男ってのは「女好き男」の極端な劣化版ね。彼らは女から「男としての価値」を査定されることを恐れるあまり、「まだ男を知らない少女」を自己愛調達先に選ぶの(発情のあるところには必ず「眼差しの非対称性」がある)。「幼い少女」の前だったらどんなヘタレ男でも「男らしい俺」を感じ続けることが出来るからね。男が自分を「強き者」として感じるためにはどうしても「弱き者」(とされる他者)が必要なのよ。男の発情の本質が「俺は男だ、キンタマ付いてるぞ、文句あっか」というオナニー的自己確認であることは、男たちの猥談を聞いていればすぐにわかると思うわ。大部分の男にとって女は自分を「男」として感じるための手段(性的対象)に過ぎないの。たまたま社会的・時代的に規定されているこの「男らしさ」(とそれをめぐる文化装置)の影響を受けない性愛なんてほとんどないのよ。人間の性愛は「本能」なんかじゃないから。こういう構造が見えないようなバカ男どもはどうでもいいの。問題はこの構造にあるていど気が付いている男もけっきょくはこの激キモゲームを逃れることは出来ないということね。ああどいつもこいつも不潔。この問題についてはまたいずれ詳しくやりましょう。もう昼飯にするわ。納豆ね。やみつきからし納豆。ポケットに入りきらないモンスターたちの悲しい夕べ。ネタニヤフとプーチンの同衾作戦。石破短命内閣。
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