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出来る男は心がみんな狭い、かつての強迫神経症地獄を振り返りながら、ママは怪文書をはがすのに忙しい、世界最強の男になり損なった男、

瀬那十三年十二月二十日

理性的な歩み寄りによる現実的で冷静な政治に関して、最初に気づくべきことは、新自由主義のイデオロギーは(そのリベラル派板でも同様に)「理性的」ではまったくないということである。それは極度に対立を好み、それを受け入れない者は危険な反民主主義の理想主義者として容赦なく排斥するのであり、その専門値はもっとも純粋なイデオロギーである。

スラヴォイ・ジジェク『あえて左翼と名乗ろう 34の「超」政治批評』(勝田悠紀・訳 青土社)〔原文傍点→太字〕

午後十二時五六分。うまい棒(めんたい味)、紅茶。冬季性抑鬱の真っ只中。極力イライラしないように過ごしたい。強迫神経症を悪化させないように過ごしたい。悪化して本当に困るの俺じゃなくて俺の周囲なんだから。ここ十年ほどの俺の最大の悩みの種はいつだって他人の物音だった。他人の物音をきっかけとしたトラブルは数知れない。引っ越しは二回した。いつどんな音が怒りのトリガーになるのかはぜんぜん分からない。いままで僕を怒り狂わせてきた音を思いつく限りぜんぶ並べてみようか。隣家の老夫婦の喧嘩、隣の学生のチック症的咳払い、がさつに閉められるドア、来たことを知らせるために鳴らされるクラクション、バックする時の車のエンジン音、ぶおーーんと走る原付、深夜の洗濯機、深夜聞こえてくるぼそぼそ声、ガキの走る足音、がさつに閉められる便座、あくび。「苦情の手紙」は何度投函したか分からない(ドアに貼り付けたこともあった)。なかには脅迫だと疑われても仕方ないものもあった。バカ面の警察が一度訪ねてきたのはそれが原因なのかも。もっともひどかったころはほとんど「理性」を失っていた。「騒音主」を暗殺すること、あるいは「嫌がらせ」をして引っ越しさせることしか考えてなかった。冷戦状態にある隣人の出すちょっとした音に対しても異様に目くじらを立てていた。とうじ僕は自分のことを完全に被害者だと信じていたが、相手は僕のことを完全に狂人だと思っていただろう。「部屋の中では発声器官を極力使わないでください、空気を振動させないでください」みたいなことさえ要求していたんだから。いま精神病院あるいは刑務所に入ってないのが奇跡。もうまじで俺は他人を苦しめてきた。地獄行きは確定してる。まあ行く直前にセナ菩薩が救ってくれるんだけど。娑婆にいるうちに一度でも「セナ様に抱かれたい」と口にすればどんな極悪人も救われるんだ。俺は自分さえ救われればそれでいいので普段このことは誰にも言わないけど。俺はあきらかに被害者面しながら他人を殴ることの出来る人間だ。そのことを理解したうえで他人と接していかないといけない。俺の正真正銘のクズなんだよ。そのへんの中途半端なクズと一緒にされては困る。俺は一種の確信犯だから。いまはっきり言えること。俺の隣にだけはぜったい引っ越したくない。そういえば当時、僕と同様の「雑音嫌悪症患者」とブログを通して知り合い、何度かメールのやりとりをしたことがあった。彼のいちばんひどいときはカラスの鳴き声にさえ嫌悪感を抱き、散歩中しばしば襲い掛かろうとしていたという。僕は動物に対して怒りを感じたことはない。鳴き声や雷の音なんかは「自然」であり、どうしようもないものだと認識しているから。僕が許せないのは「その気になれば少しでも抑制できる生活音」なんだ。過去を振り返りながら冷静に集計してみると、僕はどうやら「ドアをがさつに閉める系の音」が特に嫌いみたい。玄関や室内のドア、あと車のドアのバタンも嫌だ。安定して殺意が湧く。隣の爺さんの電子レンジバタンバタンもかつて気になってしょうがなかった。「こっちは気を遣って静かに閉めているのに」という非対称的理不尽を感じやすいタチなんだな。このへんのことについてはもうこの日記でさんざん書いている。いずれ一冊の本にまとめるよ。俺以上にこの問題の厄介さを知っている人間はそう多くないだろうから。体が冷えてきた。紅茶おかわり。ペニスの王子様誘拐事件。お前らいつまでミクシーやってんの? フェイスブックやってんの?

タイ・ウェンゼル『酒場の奇人たち 女性バーテンダー奮闘記』(小林浩子・訳 文藝春秋)を読む。
ニューヨークマンハッタンのバーに勤務していたトルコ出身のムスリム女による酒エッセイ。読んでいて酔っぱらいのタチの悪さにウンザリしてくる。僕は酒飲みだけどバーテンダーというのを近くで見たことがない。見たいとも思わない。というかバーのようなところで飲んだことがない。飲みたいとも思わない。僕はカクテルにはあまり惹かれない。「カクテルの王」デール・デグロフのこともこの本ではじめて知った。カクテルの名前で知っているのはマティーニとコスモポリタンとブラッディ・メアリーくらい。しょうじき僕はたかが酒のために千円以上も出したくないんだ。千円でべろべろに酔える大衆居酒屋のことを俗に「せんべろ」と言ったりするけど、無収入の俺からすれば、「酔うのに千円も出さないといけないの?」って感じなんだよね。水道水を飲んで酔えるならいいのに、と思わない日はない。まいにちタダ酒が飲みたい。どんなに頭が悪くても酒を毎晩おごってくれるなら俺はそいつと付き合える。タダ酒はおいしくない、とか言いたがるのは洗練度の低い貧乏人だけだ。俺クラスのルンペン学者になるとタダ酒ほどおいしく感じる。だいたい「酒の美学」だとか「大人の流儀」だとかを語りたがるのにろくな奴はいないのだ(あの小説家とあの小説家のことを思い出すこと)。さいきん僕はカネを貸した隣の爺さんから缶ビールや日本酒やまずい甲類焼酎をもらうことが多く、それなりに助かっている。かつては殺すことしか考えてなかったけど今はそこそこ親愛の情を抱いている(少しも本を読まないサル以下の人間に俺が親愛の情を抱けるなんて!)。まったくアル中ほど手懐けやすいものはないね。たぶん「たかが酒のために金なんか払いたくない」は世界中の酒飲みに共通するホンネだろう。そういえばむかし「たかが選手が」と言い放って話題をさらった死に損ないのジジイがいたね。あ、もう死んだんだっけ。セナ様に抱かれたい。夕日の差す誰もいない放課後の教室でセナ様に壁ドンされたい。「俺以外の男に抱かれたら承知しねえからな」って耳元でささやかれたい。セナ様の作った口噛み酒を飲みたい。もうそろそろ昼飯食うよ。カップ麺ね。こう見えてやることいっぱいあるんだよ俺。年内にいちおう読んでおきたい本もたくさんあるし。「死にたい」なんてもう言わない。それは俺にとって「こんにちは」みたいなもので何の情報も含まれていない。僕のおふくろは肛門に爆竹を詰め込んで火の中に飛び込みました。美しい死に様でした。ぽこぺん。おいでやす岡山。シンガポールはアル中国家。マーライオンはいつも吐いてる。引きこもりの伯父さんはいつもサルトルを読んでます。

【備忘】ルイス・ブニュエル『自由の幻想』、フレデリック・ジェイムソン、ブリュノ・ラトゥール、R・A・ラファティ、ドアクローザーの調整方法、ドアの緩衝材、プログレッシブ・ロック、

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