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死ぬまでリハビリ、注文の多い配信主、「本を読まない人とはきほん相性が悪い」、「知的格差」だの「機会の平等」だのうるせえんだよ、世紀末ぽこちん革命、自尊心なんて持ちたがるのにロクな奴はいない、
瀬那十四年一月二六日
別に、大統領の夫人が派手なカッコして手ェ振ったっていいけども、でも忘れちゃなんないのは、国民はあんたに投票なんかしてないってことね。あんたの旦那に票は入れても、別にあんたに票なんか入れてないんだから、そこをカン違いして公私混同なんかしてくれんなよな、ということね。
午後一時四五分。冬季抑鬱が強すぎて新聞の活字を拾えない。「~2.0」ってもうやめた方がよくない? この夜型生活をなんとかしたほうがいいな。せめて正午五分前には離床したい。そのほうが楽だから。夜が長すぎると希死念慮がますます強くなる。希死念慮なんていう難しい専門用語を使うな。そろそろ図書館通いがはじまる。読みたいものがいっぱいあるんだ。俺はたぶん人と付き合うことよりも本と付き合うことのほうがずっと好きだ。愚鈍で知的欲求の乏しい他人と喋っているときよりも本を読んでいるときのほうがイライラしないで済む。そういえばきのうプレジデントオンラインで、重要なのは「早寝早起き」ではなく「早起き早寝」なんだ、みたいなことが書いてある記事を読んだ。「生活の乱れ」に関するウェブ上の文章は糞の役にも立たないようなものばかりなんだけど(「起きたらまずはカーテンを開けて日光を浴びましょう、すると脳内にセロトニンが分泌されて」みたいな)、こんかいたまたま読んだこの記事には珍しく「その通りだ」と思ったね。眠剤でも飲まない限り就寝時間は固定できない。でも起床時間はたしょう意識すればどうにか固定できる。考えてみれば当たり前のことだ。僕はいま敢えて「努力」という言葉を使わなかった。人間なんてのは生きているだけで重労働なんだ。生きることは体に悪い。「人生」というのはひとつの巨大な強制収容所だ。重度のキ印でもない限りこんなところで楽しめるはずがないじゃないか。僕は人間を大病人と病人に区別したい。大病人はいつだってこの世界の地獄性を認識しようとしない。いったい何度こんなことを書けば気が済むんだ。書いてる俺がもう飽きてるんだからな。惨めな敗残者ですみません。セナ様に叱られたい。セナ様のたくましい肉体に包まれたい。キング・オブ・男子。政府効率化省って聞いたとき、「なんかB級のディストピア小説に出てきそうなテキトーな名前だな」と思った。はやくチンポコをいじりてえわ。ときどきチンポコいじってると筒井康隆の『虚航船団』のことを思い出すんだ。これの冒頭に興奮すると中身をぶちゅっと出す液体のりが確か出て来た。俺の記憶貯蔵庫はいつでもがちゃがちゃさ。俺は残りの「人生」すべてをチンポコいじりに費やそうと思う。チンポコついでに言うなら、与謝野晶子の、
大きなるつららをつたふここちかな女体の山の凍る石段
という歌に俺はとても〝エロス的なもの〟を感じるんだ。しかし、中居正広といい松本人志といい、俺が子供のころから知っている「大物芸能人」がつぎつぎスキャンダルによって表舞台から消えてゆく。その詳細はともかくとして、彼らの「身内」の「擁護論」なんかを聞いていると、テレビ界や芸能界においていかにホモソーシャル的な権力構造が強いかが分かる。「女子アナ」のような「愛玩的」対象を消費するノリはいまも消えてない。「綺麗な女は俺たち成功者へのご褒美なのさ」なんて当然のように考えている男は今もどこにでもいる。オヤジってのは自分の身体に無自覚なばかりか、自分の眼差しの権力性にも無自覚な生き物なのね。男はもちろん、女のなかにさえ「オヤジ的なもの」はある。僕は自分を含めあらゆる人間の内なる「オヤジ的なもの」を否定する。子という絶対弱者を作ることによって自分の「生」を拡大しようとする「オヤジ的なもの」を否定する。「生」は最初から醜悪で不潔なものなのだ。このことから目を逸らそうとし続ける奴らの卑劣さを俺は許さない。「原子アナーキストかく語りき」。そろそろご飯炊くよ。
クリストファー・ラッシュ『エリートの反逆 現代民主主義の病い』(森下伸也・訳 新曜社)を読む。
酒井隆史の本で論じられていたので読んだ。今年は一月から重厚なものを読み過ぎて頭がへろへろになっている。毒にも薬にもならないジャンク本を何十冊も読むよりこういうものを時間をかけて精読したほうがずっといい。「大衆の反逆」といったようなことはよく語られるけれど、「エリートの反逆」といったようなことはあまり語られない。なぜか。金持ちも政治家も知識人(大学人)も自分たちの所属している集団の「先進性」をほとんど疑っていないからだ。僕はもうずいぶん前から(一部の)「リベラル系知識人」なんかに見られる「無自覚的な傲慢さ」にムカついていた。メリトクラシー(「身分」ではなく「能力」によって社会的地位が決まること)の残酷さに彼彼女らはどこまで気が付いているのだろうか、と。おそらく、子供のころからたいへん勉強ができた彼彼女らは、勉強ができなかったせいで社会底辺に張り付いているような人たちを、はっきり見下している(彼彼女らが「右派ポピュリズム」や「情報弱者」なんかに言及するときの軽蔑的調子を思い出すこと)。「頭の悪さは学問でなんとかなる」なんてのは、「頭の悪さ」を勉強でなんとかしてきた(つもりの)「成功者」の決め付けだ。彼彼女らはこのメリトクラシー度の高い社会において成功する能力にたまたま恵まれていたに過ぎない。「勉強によってそれなりの社会的垂直移動を果たしたがゆえに勉強の重要性をじゅうぶん理解している親」、「勉強にじゅうぶんな時間を費やすことの出来た環境」、「勉強にそれほど苦痛を感じない先天的緒能力」なんかは明らかに均等に配分されているものではない。日本に限れば、地方で生まれるか東京で生まれるかだけでも違う(「教育の地域格差」)。でもたぶん僕はこれらの格差の存在を嘆きたいのではない。ただこうした格差の存在に鈍感な「成功者」がバカの一つ覚えのように「努力で何とかなる」と言い続けていることには反吐が出る。勉強で「頭の悪さ」を自分から克服できるだけでもその人は「モチベーション」において恵まれているのだ。この世にはそうした人びとには思いもよらないような無気力(勉強に向かない体質)がある。自分が出来たことは他人も出来るに違いないと考えてしまうその「頭の悪さ」をまずは何とかしたほうがいい。つまり何が言いたいか。「お前らもっと本を読んだほうがいいよ」なんて不可能なことを俺はもう金輪際言わないってこと。あと早くこんな駄文を終わらせてマスかいて酒を飲みたいってこと。生きていてすみませんってこと。悲しみの民族自決権あるいは選択的夫婦別姓。次女、皇女、狂女。サクラメント高橋の腎虚問題。サダムと俺の死亡届。ハヤシライス食うわ。電子レンジだけで温められるやつ。俺みたいな人間のクズに食われるハヤシライスのことが可哀そうでならない。生きていてすみません。国立フルボッコスタジアム。国葬。
【備忘】9600円、五十嵐元道『支配する人道主義』、マーカス・レディカー『奴隷船の歴史』、