見出し画像

孤食も文化、不倫も文化、有言不実行も文化、シャーデンフロイデも文化、

十一月一日

非常な読書家で、食事中でも書物から目をはなさぬことが多い。ずっと独学をつづけてきた彼は、底なしの胃袋をもったような知識欲を七十七歳の今日なおもちつづけているのだ。いつでも見はてぬ夢を追っている不思議な精神的若さも、そこからきている。一口にいうと彼は永遠の精神的欠食児童で、彼の手はいつも〝世界〟と〝大〟の乳房をまさぐっているのだ。

大宅壮一『昭和怪物伝』下中弥三郎(角川書店)

午後十二時三一分。ミックスナッツ、リッツ(チーズサンド)、紅茶。きょうからノーベンバー。十月三二日と書きそうになった。アメリカの大統領選よりもセ・リーグ三位のベイスターズが「日本一」になるかもしれないことのほうがいま気になっている。こんなことあっていいのか。「制度とは理不尽なもの」。「普通選挙」だって人によっては理不尽極まりない制度なんだろう。「頭がよく日本の将来をきちんと考えている人間と、馬鹿でそのうえ日本の将来などろくに考えず目先の利益ばかり追っている人間が同じ一票を持っているなんておかしいじゃないか」という声は常にある。税制もだいたい理不尽だ。まずその複雑さだけでも理不尽だ。「消費税」というものをきちんと理解している人は実はほとんどいない。それがどういう仕組みなのかを細かく理解しようと思えば少なくとも一週間以上はかかるだろう。なのに誰もがけっこう負担させられている。鶏胸肉にパン粉をまぶして焼くと嵩増ししていいよ。ちなみに笠間市は茨城県。セナ様のサインが欲しくてならないんだ。額装して毎朝その前で礼拝したい。ポール・マッカートニーとセナ様のどっちかと会えるということになっても俺は迷わないだろう。来月のクリスマスコンサートに行こうか。まだチケット買える。3500円。ブラックニッカの2・7リットルボトルくらい。たったそのくらいでセナ様を拝めるなんてありえない。静岡の奴らはなんで行かないんだ。まじで腹が立つ。コンサートに行くのはいいけどセナ様と目が合ったらどうしようか。考えただけで体が震える。失神したらセナ様に迷惑がかかる。セナ様に介抱されたい。俺七月からセナ様のこと書きすぎ。

表真美『食卓と家族 家族団らんの歴史的変遷』(世界思想社)を読む。
「団らん」の言説史。一家そろって食卓を囲む光景は「幸せな家庭」の象徴のようになっている。アニメの「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」なんかでは必ずと言っていいほどそうした光景が登場する。「家族そろって食事をしましょう」とか「人と食べることは消化にもいい」なんてことを私たちはよく聞かされている。誰かと食べたい人は勝手にそうすればいいだけなのに、「一人で食べることは悪いこと」みたいなことを言いたがる人がいるから厄介(「孤食」という言葉が登場したのは1970年代)。うるさいほっとけと思うね。世の中には他人との食事に苦痛を感じる人間だっているんだ。一時期私は会食恐怖に悩まされた。ちょっと多めの定食なんかを前にすると、「ぜんぶ食べられるかな」とやたら冷や汗が出て食べ物がぜんぜん喉を通らなくなるんだ。とくに他人に飯をおごってもらうときにそうなった。だって残したら失礼じゃん。そういうところは繊細なのよ私(自分で自分のことを繊細と言いたがるやつを信用しないこと)。飯はユーチューブを見ながら自分のペースで食うのがいちばん好きさ。しかし飯(めし)って言葉、なんか下品というか粗野だよね。「男らしい」とも言えるんだけど。私のように育ちのいい人間は相当の自意識を働かせないと使えない。三島由紀夫の豪傑笑いと同じ。高校生のころ、体育館の集会とかでアグラをかいている男子によく「色気」を感じていた。私は「体育座り」しか出来なかったから。きょうは三時には図書館に入るからそろそろ飯食うわ。パンダの肉が食いたい。サダムの肋骨とゴリラの肋骨。憎悪のリボルビング払い。

いいなと思ったら応援しよう!