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オナニーは下半身の礼拝である、
十一月十一日
親戚ほど、不愉快な他人はない。おかしくもないのに、笑顔を見せねばならぬ理由がどこにある。
午後十二時五〇分。昨深夜酔余の勢いで外歩きした際に拾った銀杏10個ほど、紅茶。「コンビニでジャンプを立ち読みする大学生に未来はない」と熱弁している代議士を射殺する夢を見る。布団から出たくなさ過ぎてまた涙が出る。人間のあらゆる不幸は布団から出ることから始まる。これ大事だから何回でもいうよ。期末試験に出るぜ。布団から出たがる人間と出たがらない人間と、どっちが「まとも」でしょうか。いまのオイラにはこんな愚問をもてあそんでいる暇はない。ひとつ言えるのは、布団の中の安定した心地良さよりも布団の外の不快と刺激を選んだ者たちが主として歴史を作って来たということだ。俺は歴史など作りたくない。むしろ歴史を終わらせたい。歴史など悪夢でしかない。だからずっと布団の中にいたい。「布団の中のディオゲネス」でありたい。俺はすべての人間が「布団の中のディオゲネス」になることを望んでいる。人々が運転免許証を取りたがったり、家庭を持ちたがったり、就職したがったりする理由が俺には少しも分からない。どれも「凡庸で緩慢な自殺」でしかないように思える。だから「そんなことはしないほうがいいよ」と言い続けているのである。はっきりいうてな、「みんな」とか「われわれ」ほど非倫理的なものはないのよ。布団から出たがる連中の言うことを信じるな。あらゆる活動は常に自他への暴力を含んでいる。げんざいの私は「人は思索さえしていればあとは何もしなくてもいい」と確信している。でも同時に「人は礼拝さえしていればあとは何もしなくてもいい」とも確信している。やがて私は思索よりも礼拝を重んじるようになるだろう。思索の空しさを思い知るようになるだろう。休館日だから石引温泉でも行こうか。このごろ原口統三の『二十歳のエチュード』にまた嵌っている。「大勢順応こそ大人の証明」と信じている大半の人間にはこうした本は受け付けることが出来ないだろう。あるていど「成熟」していない限り、彼のあらゆるものへの嫌悪と苛立ちを捉え損ねるだろう。彼の峻厳な自省癖のうちに「よくある青臭い潔癖さ」しか見ることができないだろう。「セナ様に抱かれたい」。こう唱えることが俺の礼拝。死ぬまで私は「セナ様に抱かれたい」と唱え続けよう。それ以外にやるべきことは一つもない。この「セナ様に抱かれたい」は、浄土宗などにおける六字名号すなわち「南無阿弥陀仏」みたいなもの。「セナ様の靴下になりたい」や「セナ様の喉仏になりたい」や「セナ様の腕枕で眠りたい」や「セナ様の膝枕で眠りたい」などはいずれも「セナ様に抱かれたい」のバリエーション。何を唱えるかはそのときの気分次第。今日は無限級数を勉強しましょう。あくび。あくびが止まりません。生きるということは宇宙のあくびの分散結合です。なんでもかんでも「嫌い」の一言で片づけないで。あなたの好き嫌いなんて聞いちゃいないのです。ヘーゲルはもう読めない。彼の荒っぽい論法にはもう我慢できない。哲学より礼拝のほうがずっと大事だ。むかし知り合ったムスリムもそう言ってたわ。一に礼拝、二に礼拝、三四がなくて、五に思索。礼拝だけが人生だ。礼拝も思索も布団の中で出来る。もう昼飯食うわ。ウィンナーと二ラを炒める。もうとにかくダルくてね。「天城越え」が聞きたい。恋のフライフィッシング。俺の青春はオタフクソース。
【備忘】7700円