見出し画像

ハルマゲ丼あるいはルッキズムの呪い

六月三十日

光圀はこのように賑わい酒を好んだ。柳田国男によると「独酌というのは、明治大正時代に生まれた新しい風習で、本来酒はたくさんの人が集まって一緒に飲む――集飲するものであった。さかのぼれば祭りの際に神とともに人が一つのカメの酒に酔うということが飲酒のおもしろさの源と考えられる」といい、光圀の酒は、まさに「集飲」であった。
さてその酒だがこれには濁酒、白酒、味醂などがあった。古くは濁酒だったが、この濁酒を袋に入れて押ししぼって清酒にする方法は平安時代すでに行なわれていた。しかし「すみさけ(清酒)」とはいっても、それは今日のような透明な酒にはほど遠い。鎌倉時代も酒はほとんど濁酒を飲んでいる。当時の酒はアルコール度がビール以下だったので、戦国武将が仮に一升も入るような大盃で飲んだところで、アルコール量はビール二本半ぐらいにしかあたらないので、酔いはそう深くなかった。

小菅桂子『水戸黄門の食卓:元禄の食事情』(中央公論社)


午前七時半本稿着手。きょうから図書館に復帰する。一週間、夜型生活満喫した。さっきから細かい虫がディスプレイ上を這いまわっていてイライラする。

林香里・他『足をどかしてくれませんか。:メディアは女たちの声を届けているか』(亜紀書房)を読む。タイトルは、「RBG最強の85歳」のなかのルース・ベイダー・ギンズバーグのセリフ“All I ask of our brethren is that take their feet off our necks“から発想されたという。彼女は一九九三年ビル・クリントンに最高裁判事に任命され、二〇二〇年まで務めた。アメリカのリベラルのシンボル的存在で、女性やマイノリティーの権利拡張に大きく貢献した。
「ジェンダー炎上」したというCMがいくつか紹介されていたので、ユーチューブでみてみた。サントリー「頂」のものは、「男目線」による女性の「性的対象化」がものすごい。製作者側はきっと、「異性愛男性の理想」をここに込めたつもりなのだろう。「こんなの好きなんでしょ」みたいな。視聴者(大衆)の知的レベルはつねにこのように低く見積もられている。壇蜜を起用した宮城県観光PR動画は、亀の頭を大きくしたりといった性的隠喩があからさますぎて、かえっておもしろい。地方CMならこのくらいはいいんじゃないの、という空気がもしあるとするなら、これと闘うのは大変なことだ。フェミニスト(女性というだけで不当に扱われることに我慢できない女性たち)の苦労がしのばれる。
街を歩けば必ずといっていいほど「美人」タレントを配した看板やポスターをみかけるし、「女子アナ」人気も相変わらずのようだ。「美しさ」は良い商品になる。金や地位と交換できる。みんなそのことはよく分かっている。男性であれ女性であれ「ルッキズム」的眼差しを誰も逃れることは出来ない。とはいえやはり女性のほうがそうした眼差しにさらされがちだ。大人で化粧をしない女性はかなり少ないが、男性で化粧しないのはごくふつうのこと(女性たちが「ノーメーク運動」をしないのが昔から不思議だ。顔の「美化」のために毎朝一定時間を費やすというこの理不尽にどうして耐えられるのか分からない)。「綺麗であれ」「可愛くあれ」という内外の価値圧力になにゆえこれだけの男女差があるのかについては、いずれ探求してみよう。そういえば「美魔女」というのが一時期流行ったが、これも女性を取り巻く「美的要求」のしからしむるところなのかも。もはや呪いだ。先進国における美容整形市場の規模は年々拡大傾向にあるという。「より美しく」なんかより「より知的に」もしくは「より善く」を目標にしてくれたほうがいいんだけどね。たかが容貌の評価に振り回されるなんて馬鹿馬鹿しい限りじゃないか。やはりこういうのも「綺麗事」になってしまうのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?