雑学馬鹿、権力批判馬鹿、コスパ馬鹿、
十月十九日
午前十時四九分。紅茶、蒟蒻畑(温州みかん)。用事があるから早起き。カラエズキはなし。トイレで出そうになったけど。昨夜飲まなかった。だから俺は依存症じゃないって言ったじゃないか。飲まないと読書がはかどる。思うに俺は酒にそうとう読む時間を奪われている。こんなこと前も書いたな。よく人のエッセイなんかを読んでいて、「これ前も書いてたな」なんて気が付くと、「恥ずかしくないのかな」とつい思ってしまうんだけど、そもそも毎日書いていて前と同じネタを使わないなんてほとんど不可能だ。俺みたいに「受け」を狙ってないトーシローでさえそうなんだから。エッセイなんてだいたい詰まらない。というか他人の書くものはだいたい詰まらない。「日記」なんて詰まらないものの筆頭。お前が何時に起きて何食って何回マスかいて何読んだかなんて知らねえよって話。私生活を無駄に晒して、じぶん有名人のつもり? 馬っ鹿じゃないの? 耳が痛いよ、もう一人の俺。それを言っちゃおしまいなんだ。もう何も書けなくなるだろ。書くってのはさいしょから滑稽なことなんだ。大なり小なり黒歴史を作ることなんだ。マスコミのよく使う「権力批判」という言葉がやはり苦手だ。なんだか空疎にしか聞こえない。それがいつも政府批判や国家批判でしかないから。大衆批判やメディア批判(自己批判)も同じくらい必要だし、時代批判はもっと必要だ。時の権力者(「馬鹿な政治家」など)を選んでいるのはたいがい大衆なのであって、既存の制度をなんだかんだ肯定しているのも大衆なのだとしたら、そんな大衆を大衆たらしめる「時代」を批判対象から外すことは少なくとも俺には不可能だ。「巨悪と闘え」みたいな語り口にはもうウンザリだ。自己陶酔もいい加減にしろ。百歩譲ってそんな「巨悪」みたいなものがあるとすれば、「内省しない人びと」こそそれだ。(おそらく)いつの時代においてもなぜこれほど内省が過小評価されているのか。内省しない人間が多い方が統治しやすいからなのか。馬鹿みたいに新しい商品を買ってくれるからなのか。「人は考えてさえいればあとは何もやらなくてもいい」。人間にもっと内省癖があれば地球の人口は多くても百万人くらいだっただろう。この種の夢想は俺を陶然とさせる。あじゃっぱー健太郎。