本を読みながら息絶えられるなら本望
三月二二日
十二時四五分起床。コーヒー、いもけんぴ。
きょうから図書館出発刻限については、その日の日記(事実上の読後録)の進捗具合に応じて、「二時三五分」と「三時五分」とを選べることとする。でないとじゅうぶんに書けないし、「昼飯」もよく噛んで食べられない。消化に悪いざんす。
阿刀田高の短編集『地下水路の夜』(新潮社)を読む。「奇妙な味」とも評される、不気味な余韻の残る作品を得意とする小説家。この言葉は江戸川乱歩が名付け親だと言われている。彼にはいくつかの長編もあるが、質量ともに短編のほうがはるかに上回っていることは衆目の一致するところだろう。
この短編集が刊行されたのはわりと最近だ(平成二七年)。阿刀田高は一九三五年生まれ。つまり米寿に出された本。一九三五年といえば、「大長征」中の毛沢東が中国共産党遵義会議で党内指導権を確立させた年、あるいは、エルヴィス・プレスリーがミシシッピー州イースト・トュペロで生まれた年である。月並みな言い方であることは承知だが、創作力の枯渇をそこまで感じさせない。円熟味と褒め上げたくなるほどではないが、全編に著者の本に対する限りない愛情が滲みこんでいて、心地よかった。氏の作品に関しては初期のものほうがブラックユーモア度が高く、偏屈意地悪な私の好みに合うのだが、本書のように知的(雑学的)でリリカルでウィットに富んだ作品群にも愉悦を感じる。本書を(ブック・オフで)買ったのは裏表紙の内容紹介(うらすじ)に「ブッキッシュに贈る」とあったからだろう(「うらすじ」は帯文と並んで担当編集者の並々ならぬ努力が込められたものであり、世のにとって一度は研究してみる価値があると言えるだろう)。<bookish>とは何か。デジタル大辞泉の記述をまとめると、「本好きの、書物に凝った、型苦しい、学者臭い、机上的な、非実際的な」ということになる。おおむね否定的な意味とおぼしいので、あまり周辺の「読書家」に使わないほうがいいかもしれない。本書表題作「地下水路の夜」でもこの言葉をめぐるやりとりがあった。私はブッディズム(Buddhism)ならぬブッキズム(bookism)という言葉もときどき使っている。
過剰なほどブッキッシュな人間もしくは重度活字依存症患者が中心的な役割を担う物語が好きだ。あるいはそれまで本などほとんど読まなかった人たちが何かのきっかけで読書に目覚め「世界の見え方が変わりはじめる」といった話が好きだ(たとえばアン・ウォーズムリー『プリズン・ブック・クラブ』など)。好みの小説を通じて人脈が広がったり、一冊の本をめぐって口角泡を飛ばして議論したり、ある書物に感化されて反社会的通念を育んだりする(読者の「闇落ち」)、そんな展開にどうして私はこうも惹かれてしまうのだろう。私はライトノベルというものをほとんど読んだことがないし、これからも読まないとは思うが、学校の図書館や町の図書館を舞台にしたその種の「学園もの」作品が増えてほしいなと、一人のブッキッシュとして思う。
書物を愛する者は書物を愛する者としか「繋がれない」のかもしれない。翻っていうなら、私が思わず知らずのうちに嫌悪感を抱いてしまう人間はきっと書物とは縁遠い生き方をしてきた人種なのだ(隣の爺さん)。「○○が好きな人間に悪い人間はいない」という定型句があって、誰もが自分の最も愛する趣味をその○○に入れたがる。私はこれまで音楽(就中モーツァルト)と読書をここに入れてきた。言わずもがなだが、ここでいう「悪い人間」とは「心が通じ合える気がしない」ということであって、倫理的な意味での「悪い」とはほとんど関係がないだろう。しばしば読書は人間を驚くほど「邪悪」に導くのだから。
「地下水路の夜」の最後の方のセリフのなかに、「ツイッターなんて、いい加減なものがどんどん広がる」というのがあって愉快だった。阿刀田先生には失礼だが、ツイッターを御存知だったのですかと思った。彼はこうしたSNSのなかに現代版のヒュポクリシス(人を感心させる雄弁術の一つ)を見て取る。その慧眼には感服する。