THe DaRk side OF tHe 月、露出された狂気の耐えられない不毛さ、ポストモダン的電気羊は薔薇園では迷子にならない、「大人とは堕落した子供でしかないのか問題」のクラスター構造、
九月十三日
午後十二時七分。ミックスナッツ、紅茶。わりとルンルン状態。ダミアの「暗い日曜日」か中島みゆきの「泣きたい夜に」が聞きたい。ダミアのアルバムがスポティファイにあった。この人の声には諦念の色気がある。諦めというのはいつも美しい。だいたい俺が眼を背けたくなるような人間は諦めが不足し過ぎている人間だ。昨夜の散歩中、黒タンクトップの若い男を見て興奮した。なんでこう黒タン男子に弱いんだ。頭がパーで話が通じないけど黒タンの似合う男と、頭がよくて話は通じるけど黒タンの似合わない男、どっちと僕は寝たいだろう。なあなあ。また隣から未読の読売新聞が回ってくることになった。新聞を読むのはそこまで嫌いではないけど読売はきほん好まない。読売なんてもう「体制側言論機関」以外の何ものでもないからな。しかもジャインアンツが優勝しそうだし。どうせ紙の新聞を取るならせめて中日新聞(東京新聞)か毎日新聞にしてくれよ。どっちみち不満はなくならないだろうけど。マス向けの報道(マス向けじゃない報道なんてあるか)ってのははじめから「非個人化」されている。だからとうぜんどんな報道に接しても「これは俺とはぜんぜん関係のない問題だ」としか思えない。たぶんほとんどの新聞読者はこういう感じじゃないの。大人として「時事」に関心のあるふりくらいはしているかもしれないけど、「本当はどうでもいい」という人のほうが多いんじゃないか。「庶民(生活者)」ってのはだいたいそういうもんだ。その教養の低さや視野の狭さからして「大きい問題」は扱えない。誰もがなにかしらの疎外感を覚えながら新聞を読んでいるんだ。たとえばどんな新聞社も少子化を「憂えるべき問題」として扱っているけど、もうそれだけでも私は自分が「想定読者」から外されているような気になる。「そんな空疎な憂国会議に俺も参加しろってわけ? ふざけるんじゃないわよ」って言いたくなる(ああ俺はいったい「何様のつもり」なんだ)。「公の問題」がそのまま「個人の問題」になるとはどうしても思えないね。「個人的なことは政治的なこと」という第二派フェミニズムのスローガンを僕はいつまでも飲み込むことができない。僕の「皮膚感覚」では、個人的なことはどこまでも個人的なことであり、政治的なことはどこまでも政治的なことだからだ。もっというなら、個人的なことはどこまでも個人的なことであるべきであり、政治的なことはどこまでも政治的なことであるべきなんだ。埴谷雄高の「政治嫌い」が今の俺にはよく理解できる。新聞の嫌なところは中途半端な理想論に毒され過ぎているところだ。徹底して厭世的な新聞があってもいいんだけどね。「この世界」に「憂えるべき問題」があるとすれば、それは、ほとんどの人間が「正しく」絶望していないことだ。「すでに存在していることのこのどうしようもない無意味さ」から目をそらし続けていることだ。あらゆる「政治的熱狂」の第一原因はここにある。ペルーの元大統領フジモリが死んだらしい。さいきんはペルーと聞くたびに嬉しくなる。セナ様の親父の故国だから。
鹿島茂『悪の箴言(マキシム) 耳をふさぎたくなる270の言葉』(祥伝社)を読む。
最後まで愉快に読めた。鹿島茂の本はだいたい面白い。フランスには辛辣で短い言葉で人間や社会の本質を言い当てようとする箴言(マキシム)の伝統があり、人々はそのエスプリを競い合ってきた。この本で主として取り上げられているのは、ラ・ロシュフコーとラ・フォンテーヌとパスカルとシオランの箴言。ラ・フォンテーヌ以外はだいたい親しく付き合ったことがあるし、今も付き合っている。ラ・ロシュフコーの「ぜんぶ自己愛なのさ」と言わんばかりの箴言を聞いて耳が痛くならない人はいないだろう。彼ほどの腕前になると、「俺には承認欲求なんかない」「自分は嫉妬なんか感じたことがない」とか言って自分をクールに見せたがる人間の自己愛まで先回りして撃つことが出来る。こんな人を友人に持ちたくないわ。友人というのは多少は愚鈍なほうが付き合いやすいのかもしれない。「友達の多い人」で知的そうなのがほとんがいない理由はたぶんそのへんにある。ラ・ロシュフコーの『箴言集』は岩波文庫のものがいちばん手に入りやすい。訳者は二宮フサ。むかし覚えるほど愛読していたのに二回の引っ越しのせいで今は手元にないんだよな。こんど文圃閣で買おうか。たしかあったはず。彼の生きた17世紀のフランス(ルイ14世時代)の政治事情を知ることはその箴言を理解する助けになる、ということでいま堀田善衞の『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』を読んでいる。ところで鹿島茂と内田樹は顔も体格もなんとなく似ているね(どっちもいい具合に邪悪そう)。生まれた年もほぼ同じだし、仏文学者というところも同じ。なんで対談しないんだろうと思ってたけど、いま調べたら、もう対談してた。もう昼飯にするわ。雲古がまだ出ないんだ。また硬くなってんのかな。飲み過ぎたか。でも昨夜はアサヒスーパードライの500ml缶と350ml缶しか空けてない。オリゴ糖入りの青汁飲もうか。雲古がいい感じに出ないと図書館に行く気がなくなる。この便秘恐怖って何なんだろうね。とにかく出ないのが気になる。ケツの穴に指を突っ込んででも出したくなる。介護の言葉に「摘便」ってのがあったな。いい言葉だ。筆名にしたいくらい。佐野摘便。スカトロ天国。