xX,ニコチンアルカイダ、「お金がないのは首がないのと同じ」というデマ、シルバーデモクラシーと現金主義的黙示録、
十一月月二十日
午前十時十七分。紅茶、ナタデココゼリー。用事があって早起き。生きた心地がしない。しかも寒い。冬眠したい。冬眠だけが正義。寒さと眠さだけはどうにもならない。どちらかひとつだけでも嫌なのに毎朝両方経験しないといけないんだから堪らない。余生は礼拝と句作をしながら過ごしたい。憎しみの遊覧飛行。憧れのロンドン地下水道。あのババアは何時間ねばるつもりだ。何をみても空しい。涙の嵐。気怠さの強化的再生産。生きることの途轍もない面倒臭さ。ただじっとしていてもしんどい。鶏胸肉料理はもう自家薬籠中の物にしてしまった。しかしキャベツ(甘藍)の値段が上がったね。アオキではちょっと前まで190円くらいで買えたのに今は300円近くになっている。それでもキャベツは一玉買えば一週間は持つからいいね。ただ四分の一くらいに切らないと小さな冷蔵庫には入らない。買ったばかりのツヤツヤしたキャベツに包丁を入れるとき僕はいささか嗜虐的な気分になる。キャベツ畑のキャベツを叩き壊すように、みたいな殺人描写を以前どこかで読んだな。低所得者のエンゲル係数が上昇しているらしい。食品の値段がこのまま上がってもらっては困る。俺は賃金労働してないから無防備感が半端ない。生きていてくれてありがとう、ということで生活費を恒久的に支給してほしい。すべての人間は最低限度の生活をおくる義務がある。国は俺を食べさせる義務がある。俺が国という存在を認めることが出来るのは、国が俺を食わせ続けることが出来る限りにおいてだ。そんなこと個人には望めない。親や友人といった個人はいつ死ぬか分からないからだ。だいたい他人の「善意」など当てに出来ない。俺は「制度」に守られたい。「食うことだけは心配するな」と言われたい。なんだかんだいって俺は「国家」と呼ばれている権力機構を肯定している。「経済弱者ほど排他的愛国心に染まりやすい」と僕が直感するのは、経済弱者ほど「いずれ国のお世話になる」という予感を強く持っているだろうからだ(「お世話になる」という感じ方は明らかに間違っているんだけどね)。生活保護受給者やその予備軍が「反国家的」な思想を弄べるとは思えない。「弱者」というのはいつだって強大な何かに寄りかかって生きるしかないんだ。「お金がない」というただそれだけのことで屈辱感を強いられている馬鹿どもに塗る薬はない。「たかがお金じゃん、ないならもらえばいい」なんて堂々と言えるためにはそれなりの知的修練を重ねる必要があるらしい。そもそも財政って何なのさ。このまえ誰かが財政の三つの機能ということを言っていた。資源配分機能、所得再分配機能、経済安定化機能。この「所得再分配」の「再」というのがいつも気にいらない。これについてはまた書くわ。ああまじだるい。このあとどうしようか。古書店にでも行くか。そして石引温泉だ。俺の行くところはだいたい決まっている。だから日記も同じような内容ばかりになる。いつも書きながらウンザリする。また同じこと言ってるよ俺、と。そんな「判で押したような日常」を俺はたぶん愛している。新奇性など僅かばかりも求めていない。宇宙は同じことの繰り返しだ。終わりなき陳腐な悲喜劇。涙あり笑いあり。新しいも古いもあるか。「成功者の転落」なんてもう暇つぶしにもならない。俺は五歳でもうすでに生きることに飽きていた。倦怠を感じることにおいて俺は神童だった。空しすぎて吐きそう。どこにいても平日の昼間のイオンにいるような空しさを覚える。もう書くことないわ。最初からないんだけどね。毛むくじゃらのラプソディー。サナダムシA級戦犯。「俺の革命時代はもう終わりつつあるのかもしれない」。残念そこは近本。死にぞこない倶楽部。