思いこみの強い人は不安な人です
以前の記事に書いたが「ラジオ テレフォン人生相談」をひっそり聴くことが私のささやかな趣味である。他人様の身の上相談を好きこのんで聴くとはなんとも無礼千万。なんて背徳感を抱きつつそれでも聴かずにはいられない。
ちなみに、50年以上、この番組のパーソナリティーを務められている社会学者の加藤諦三先生は、必ず番組の最後に「締めのお言葉」を、相談内容にまつわる一言として仰る。その締めのお言葉がタイトル『思いこみの強い人は不安な人です』である。
加藤先生、私のことをどうしてご存知なのですか?「締めのお言葉」を聴いた途端、思わず突っ込んでしまった。
かねがね、役割だとか、責務とか、信念といった妄信まがいを傾倒している私だが、実のところ、それは心根に横たわる不安感情に対する防衛機制だったり、諸々の不安定な内心が投影されたものであることは十分わかっているつもりだ。しかし、それでもこのように正面きってドンピシャで言い当てられてしまうと不覚にも動揺せずにはいられない。
ところで、当の相談はというと、他人様のコトなので詳細は控えるが、相談者は、ある知人から長期間にわたり嫌がらせを受けているが、そのことを誰にも打ち明けることなくこれまできた。そうこうしているうちに、知人は近所に自分の悪口まで言いふらし始めた。何故なら近所の人の自分を見る視線が明らかに違うからだ。これから自分はどのような心持ちで生きてゆけば良いのだろうか。といったものである。
加藤先生は、相談者がこの件を誰にも相談できずにいる、という事実に注目をされゆっくりと相談者に語りける。
実はあなたには幼少の頃より信用できる人が本当は誰ひとりいなかったのではないか。あなたが生きてゆくためには、知人との間柄をそのように思う(事実の曲解)より他ない背景が幼少期にあるのではないか。それがもう先に進めず行き詰まってしまい、どうしようもなくなって電話をかけてこられたのではないか。
加藤先生は、(そのように思いこまずにはいられなかった)自分の世界を壊さなければ人生の行き詰まりは解消されないと相談者に諭す。
かなり相談内容を端折ったので読み取りづらいかもしれない。また、テレフォン人生相談は放送時間は20分と短いが、実際はもっと長い時間をかけて相談に応じているそうだ。なので、放送には乗らないやり取りや心の機微が両者の間で交わされていることが察せられる。
私は、そのやり取りを聴きつつも、ついつい自分のことにあてはめて考えてしまうのだ。
これ程まででは無いにせよ、相談者の対人関係における認識には何となく理解できる部分がある。私自身、悩みや心情を他者に話すことは幼い頃からしたことが無かった。文脈上、話すことがあったとしても問題の表層に留めて、話の核心を話すことはしなかった。これは、私の傲慢さに尽きるのだが、いくら話したとて、私が望む理解や回答を他者から完全に得ることは決して無いし、悩みは自分で解決しなければ、と過剰な自意識が邪魔をして意固地になり他者を頼ることを恐れていたのかもしれない。また、そのような考えに至る経験を幾度か重ねたことも影響していただろう。
だが、その結果、この思い込みの強い性格に行き着いたかと思うと少々複雑である。もちろん、対人関係における捉え方がそのまま、思い込みの強さに反映されたとは思ってはいないが、元来の気質に加え、様々な場面で学習された認知的歪みが、他者や外界との間に厚い壁を作り出し自閉的な自己完結を導いてしまい、良きにも悪しきにも、ひとりよがりで思い込みの強い傾向を形成したことについては受け止めるより他ない。
おそらく、長年、人の心理について研究された加藤諦三先生の仰ることなのだからきっとそうゆうことなのだろう。不安から逃れるためなら極度の思い込みによって現実をも変容させてしまうのだ。
つまるところ、私の主観的世界、内的世界などというものは、抑圧と投影から成り立っている幻想の世界に過ぎないのだと思うし、物事の認知や理解といった自分の世界の捉え方と、仕事などで他者と関わるような日常とのあいだには、すでに相容れない溝ができており、そのズレを埋めきれなくなっていることもいい加減、勘付いている。
通りがけのガラスに映る自分の姿を見かけ、その滑稽さにどんな感情を抱けばよいのか。それにあてがう言葉すらも見つからない。差し当たり、そんな言い知れぬものが心の内側にぴったりと張り付いてしまっている。
「自分の世界を壊さなければ人生の行き詰まりは解消されない」いつだって加藤先生の言葉はこうして私の心の内にズシンと来る。情けないことに、私は自分で凝り固めた世界を壊すことも出来ず、どうでも良いところを掘り返してばっかりいる。
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